日本語のわかる外国人は、カタカナになった自国の地名、人名その他に戸惑うようです。逆に、日本人が外国に行っても同様に名前でびっくりすることがあります。
ドイツでびっくりした外国人の名前
古代エジプト編
「トゥタンヒアムーン」「トゥトモージス」、誰だかわかりますか?
トゥタンヒアムーン = ツタンカーメン
トゥトモージス = トトメス
テレビだったのですが、最初耳で聞いただけではピンときませんでした。
しかし、テーマは古代エジプト。
有名な黄金のマスクの映像が映しだされたところで「ツタンカーメン」であることがわかりました。
はじめて聞いたときには「え?」と声を上げて驚いてしまいました。
ヨーロッパの王様が全部ドイツ名
ヨーロッパでは歴史的な人物を自国語風に読み替えることが多いです。
「ハインリッヒ」や「ルードヴィヒ」はドイツ人ぽいですが、これがイギリスやフランスの王様だったりします。
たとえば
ハインリッヒ8世 = 6人の妻を持ったことで有名なイギリスのヘンリー8世。
次々と離婚したり斬首したりして、この人の奥さんは悲惨です。
こんな例を見ると側室制度のほうがはるかに人道的ですね。
ルードヴィヒ14世 = フランスの太陽王ルイ14世、
その他、
カタリーナ2世 = エカテリーナ2世
もう「誰?」って感じ。
知識として知ってはいたけれど、慣れることができませんでした。
でも現代のチャールズ英王太子やウィリアム王子はカールやヴィルヘルムなどと呼んだりしないで、そのままなんですけどね。
明治なカタカナ人名
次は、ドイツ人の名前が日本で変なカタカナになっている例を紹介します。
江戸・明治
ケンペル(1651~1716):ドイツ人医師・博物学者。
ケンペルは医師として江戸時代の日本にやってきて、『日本誌』を著しました。志筑忠雄が一部を『鎖国論』として訳出。日本語の「鎖国」の起源です。
現代人なら「ケンプファー」となったでしょう。
そして、もうひとりは、
ロエスレル(1834~94):ドイツの法学者。明治政府の法律顧問として来日。大日本帝国憲法の制定にも関わる。
この人も現代ならカタカナは「レスラー」だったはず。
Roeslerなので文字通り読んでロエスレル・・・だったのかも。
ゲーテとシラーも悲惨
ロエスレル的なカタカナは多かったようで、
「ギョエテとはオレのことかとゲーテ言い」
という川柳が有名です。
ゲーテのつづりはGoetheなので、そのまま字を読んでギョエテと書いた人もいたかもしれません。
私は「ギョエテ」は見たことがないのですが、古い文献で「シルレル」を発見しました。
前後の文脈からシラーのことだとわかりましたが、びっくり!
ゲーテもシラーもドイツ古典主義文学を代表する人物で日本でも古くから読まれていますが、昔はすごいカタカナになっていたようです。
なぜかドイツ人の名前が多いロシア宮廷
名前自体がおかしいわけではありませんが、ドイツではないのにドイツ系の名前が多く出てきて違和感があるのはロシア帝国です。
いまのロシアの有力者はロシア人のようですが、帝政ロシアではドイツ系貴族が大勢活躍していました。
日露戦争の有名人にはドイツ系がわんさか
以下は日露戦争時のロシア側主要人物として日本でも知られている名前です。
ウラジーミル・ラムスドルフ:ロシア帝国外相。
ロマン・ロマノヴィッチ・ローゼン:駐日大使。
ヴィリゲリム・カールロヴィチ・ヴィトゲフト:ロシア帝国海軍軍人。日露戦争で旅順艦隊を率いた。黄海海戦で戦死。
アナトーリイ・ミハーイロヴィチ・ステッセリ(ステッセル):日露戦争時の旅順要塞司令官。
オスカル・フェルディナント・カジミーロヴィチ・グリッペンベルク:黒溝台会戦の将軍で日本軍に苦戦を強いるがクロパトキンと対立して帰国。
パーヴェル・カルロヴィチ(パウル・フォン)・レンネンカンプ:ロシア帝国軍人。奉天会戦で敗北。第一次世界大戦ではロシア軍を率いて東プロイセンに侵攻。ロシア革命が起こり1918年、赤軍により銃殺刑。
ファーストネームはロシア化しているようですが、みなさん姓がドイツ的です。
バルト三国のうちのエストニアとラトビアがロシア帝国に編入されたときに、そこのエリート層を形成していたドイツ人貴族たちが、ロシア帝国で出世したためです。
外交や軍事そのほかの分野で幅広く活躍しました。「バルト・ドイツ人」と呼ばれます。
そもそもロシアの王朝の始祖が北欧からやってきたヴァイキング。
ロシアの古名「ルーシ」とはヴァイキングのことらしい(諸説あり)。
しかも建国伝説によると、スラブ人自身が自分たちで治められないからヴァイキングに頼んで王になってくれと頼んだのだとか。
ウィッテもバルト・ドイツ人
そして、米ポーツマスで日露講和条約を結ぶにあたって小村寿太郎が苦労した交渉相手を忘れてはいけません。
セルゲイ・ウィッテ:ロシア帝国の運輸通信大臣、大蔵大臣を歴任し、日露戦争の講和会議(ポーツマス会議)ではロシア側全権。のちに首相になる。
この人はオランダ系ですが「バルト・ドイツ人」のカテゴリーに入ります。
「バルト・ドイツ人」とは、このように必ずしもドイツ出身とは限らないし、混血も進んでいるのでした。
こんな人もバルト・ドイツ人
広義には東プロイセン人もバルト・ドイツ人に含まれ、その意味では、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(ドイツの哲学者・文学者で、古典主義・ロマン主義文学に多大な影響を与えた)やエマヌエル・カント(ドイツの哲学者)もバルト・ドイツ人です。
時代変わって、アルフレート・ローゼンベルクはドイツ第三帝国のイデオローグ。
レヴァル(現エストニアのタリン)生まれのバルト・ドイツ人です。
第二次世界大戦後、ニュルンベルク裁判で死刑判決を受け処刑されました。
ちなみに2002年FIFAワールドカップ日本・韓国大会で日本でも有名になったドイツ代表のゴールキーパー、オリバー・カーンも父方がラトヴィア出身なので「バルト・ドイツ人」の末裔です。
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