いつからドイツ? どこまでドイツ?
大陸にある国は支配・被支配関係が時代によって異なり、国境もコロコロ変わるので各国史を語るのが難しいものです。
ドイツもまたしかり。
今回は意外と知られていないであろうドイツ史の一面を紹介します。
2000年の歴史を誇るボン
私は数年前まで、ドイツのボンに住んでいました。
ベートーベンの生まれた町ボンは戦後西ドイツの首都
ボンにはベートーベンの生家があり、市の中心にはベートーベン像があります。
ボンは現ドイツ連邦共和国の西部、ライン川沿いにある町で、戦後西ドイツの首都でした。
古代世界、ドイツはなくともボンはあった!?
ボンは、なんと2000年の歴史を誇っています。
ドイツはなくともボンはあったのです。
もちろん都市国家ボンがポツンとあったわけではなく、ちゃんと国がありました。
あのローマ帝国です。
ライン川はローマ帝国の国境でした。
ライン右岸は野蛮人のゲルマニア、ライン左岸はローマの属州ゲルマニア。
ライン川沿いには国境を守るために軍団基地がもうけられました。
そのうちのひとつがボンです。
残念ながら現在のボンでローマの遺跡を見つけることはほとんどできませんが、かつて軍団基地があった場所では、今でも住居や道路の位置がローマ時代の区画と重なるそうです。
ケルンはローマのコロニア
ボンから電車で30分ぐらい北に行くとケルンがあります。
世界遺産の大聖堂(関連記事はこちら)が有名です。
ネロの母アグリッピナの生誕地
ケルンはローマの属州「低地ゲルマニア」の州都Colonia Claudia Ara Agrippinensiumでした。このコロニア(Colonia)が「ケルン」になりました。
クラウディウス帝の時代にコロニアになったのでColonia Claudia。
その契機をつくったのがクラウディウス帝の妻で、悪名高い皇帝ネロの母アグリッピナ。
だからアグリッピナの名前も入っています。ケルンはアグリッピナの生まれた都市なのでした。
アグリッピナの悪女っぷりについては塩野七生『ローマ人の物語 悪名高き皇帝たち』に詳述されています。
自分と皇帝の妻の座を争った女性を自殺に追い込んだり、クラウディウスが先妻との間にもうけた実子を押しのけて、連れ子のネロが後継者となるよう画策したりします。
ローマの遺跡も残っているが……
ケルンにはローマの遺跡もわずかに残っていますが、ガイドブックを見ながら注意深く探さないと見つけるのは難しい。
ただし大聖堂の裏にあるローマゲルマン博物館にはローマ時代の出土品の展示が充実しています。
ローマの遺跡が見られるのはトリーア
一方、ローマの遺跡がデ~ンと建っているのがトリーアです。
↓写真はポルタニグラ(黒い門)。
トリーアに行ってポルタニグラを見ないのは、ローマでコロッセオを見ないようなもの。
どんなに急いで観光しても見逃すことはありません。ほかにもローマ時代の公衆浴場跡や円形競技場が見られます。
中にも入れます。ちなみにアイキャッチ画像はポルタニグラの中から撮影した写真。
トリーアはモーゼル川沿いにあるルクセンブルクとの国境の町。
キリスト教を国教にしたことで有名なコンスタンティヌス帝(在位306~337、324~単独皇帝)が単独皇帝位につく前に拠点していたのがトリーアでした。
コンスタンティヌス帝はキリスト教を保護した皇帝ですから、のちにヨーロッパが完全にキリスト教化されてからも「良い皇帝」として崇められました。
それ以前の皇帝は異教徒ですから、「悪い皇帝」です。
トリーアはコンスタンティヌス帝ゆかりの土地だったために多くの建造物などが残ったのではないでしょうか。
「ドイツ最古の街」がキャッチフレーズです。
町の創設そのものはほぼ同時期ですが、ただの「軍団基地」や「集落」ではなくローマ市民の住むローマの都市として認められた歴史はトリーアのほうが古いみたいです。
現代に残る古代ローマの影響
ドイツというとハプスブルク皇帝家の本拠地ウィーン、プロイセン・ドイツの首都ベルリンが中心に語られることが多いですが、最も古くから文明化されたのは北西部のライン地方でした。
2000年前など遠い昔の話ですが、現代のドイツにも、そんな古代史の影響が現れています。
以下の地図は、オレンジが濃いほどカトリック教徒が多いことを示しています。
ローマの支配下にあった地域(北西部~南部)にカトリックが多く、ライン右岸以東はプロテスタントが多い。これは偶然ではないと思います。
西ローマ帝国が滅んだのは5世紀。宗教改革は16世紀ですが、古い歴史もあなどれません。
(つづく)