学校その他で何年も勉強しているのになぜ英語がうまくならないのか。
多くの人が疑問に思っています。
かく言う私も、非常に疑問に思ってきましたし、今も思っているのですが、思いついた点をまとめてみます。
ヨーロッパ人にとって英語は簡単
ヨーロッパには何ヶ国語も話す人がゴロゴロいます。
彼らは語学の天才なのでしょうか。
そうではないと思います。
この場合「○ヶ国語」に数えられている複数の言語は、英語やフランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ポーランド語など、すべてヨーロッパの言語です。
まれにヨーロッパ以外の言語ができる人もいますが、移民系などルーツが非ヨーロッパ圏にある人を除けば、それは英語のできる日本人よりはるかに少ないと思います。
ヨーロッパ系言語は互いに似ています。
日本人の考える「外国語」ほど遠い言語ではなく、少し強い方言ぐらい。
「東京語と大阪語と博多語ができるので、私はトリリンガルです」と言っても日本では冗談にしかなりません。
しかし、もう少し通じない方言をイメージしていただければ、ヨーロッパ基準では立派に「外国語」に相当します。
どこまでが別言語でどこからが方言なのかの言語学的な基準はありません。
すべて政治(歴史)です。
もしヨーロッパが一つの国であれば、英語やフランス語、ドイツ語などはすべて「方言」と呼ばれていたかもしれません。
北京語話者と広東語話者では全然言葉が通じないのに「中国語」とひとくくりにされているように。
逆に、たとえばオランダという国がなくドイツの一部だったら、「オランダ語」はなく、ドイツ語の「方言」でしかなかったでしょう。
実際にドイツ北部の方言は標準ドイツ語よりオランダ語に似ていると言われます。
それでもドイツ北部で話される言語は独立した言語ではなく「ドイツ語の方言」なのです。
ハンガリー語やフィンランド語など若干の例外を除いて、ヨーロッパ地域の言語は親戚言語です。
だから一つできる人は、他の言語をマスターするのもたやすいわけです。極端に言えば、単語を覚えればいいだけ。しかも、一回覚えればいい。
日本人が英語(をはじめとするヨーロッパの言語)を覚えるときには基本単語であればあるほど何回も覚えなければなりません。
辞書を引くと、意味が①②③④⑤……とたくさんあり、単語によっては使い方の解説までのっていて、さながら文法書のようです。
ヨーロッパの言語同士の辞典はそんなことをする必要がない。小さなポケット辞典で、けっこう用が足ります。
さらに日本語とヨーロッパの言語は語順も全然違うし、言い回しも違います。
「兄弟を持つ」「熱を持つ」より「兄弟がいる」「熱がある」と言うのが日本語では一般的で、一事が万事そんな感じ。
ヨーロッパ人がしなくていい苦労がたくさんあります。
日本人がヨーロッパ系言語を習得する場合、欧米人学習者と同じ土俵に乗れないのは当然と言えるでしょう。これはハンデが大きすぎます。
ですから、現地の語学スクールで欧米系クラスメートがすぐに上手になるのに自分だけ落ちこぼれているように思って落ちこんでいる人、なんにも引け目に感じることはありません。
当たり前です。
中国人のほうが英語ができるのはなぜ?
では、アジア人と比較した場合は、どうでしょうか。
アメリカの大学教授の話ですが、日本人と中国人の留学生がアメリカにやってきて、当初の語学力が同じ程度だったとすると半年後には中国人留学生のほうがはるかにペラペラ英語を話しているといいます。
この違いはどこにあるのでしょうか。
日本語も中国語も英語と似ていないことでは同じですから、言語構造の差は理由になりません。
中国人には日本語の上手な人も大勢いますから、彼らと日本語と話したことのある人は多いのではないでしょうか。
中国人と話して思うのは、彼らが大変に雄弁であるということです。
意見を持ち、語り、主張する。日本人にはそれができない人が多い。
私たちの母語である日本語で話していても、中国人の話はたいていの日本人より筋道だっています。
日本語は曖昧か
よく日本語は曖昧だと言う人がいますが、それは違います。
外タレの元祖(?)ケント・ギルバートさんは非常に日本語に堪能で、彼の日本語は明晰です。明晰な人が日本語を話せば、その日本語は明晰になるのです。
曖昧なのは日本語ではなく、日本人です。
もっとも、曖昧にせざるをえない理由もあります。
日本では相手の意見を事実上、否定できません。
真っ向から否定するときは喧嘩や仲違いを覚悟しなければなりません。
あるいはすでに関係が悪い状態にある。
ふつうは相手が何か言ったら「そうですね」と、とりあえずは肯定し、その後で自分の意見を言う。
自分の意見が同じ方向性にあればいいですが、反対であったり、別方向に向けたいときには、一旦は肯定しているわけですから、どうしても論理的にはおかしくならざるを得ません。
無意識のうちに学習するコミュニケーション文化
セサミストリートというアメリカの子供番組があり、日本でもかつては英語のまま放映されていました。
ある回のクロージング場面で、子どもたちが集まっていました。
そこへ物音が聞こえてきて、ひとりが「〇〇みたいだ」と言います。
すると別の子どもが「違うよ。△△みたいだ」また別の子どもが「いや、✕✕みたいだ」と次々に違うことを言い出します。
そして一周めぐって、また最初のひとりが発言します。
しかし、このときは「いや、□□みたいだ」と最初とは違うことを言っていました。
なんてことはないシーンでしたが、ある種、衝撃的でした。
日本の子供番組、たとえば「おかあさんといっしょ」の人形(着ぐるみ)キャラクターだったら、あるキャラが「○○みたいだ」と言ったら、ほかのキャラも「そうだね」「本当だね」のように同意する展開になるのではないでしょうか。
どちらがいい悪いではありませんが、とにかく違う。
否定できる文化とできない文化
否定できない文化に育った人は、相手の意見を真っ向から否定することができません。それは関係を断ち切ることになってします。
同意・同調は文化的な強制ともいえます。
逆に相手が否定できないことがわかっているから、こちらもうっかりと思ったことを言うことができない。そこで、日本人は言わないで言う。そんな察しの文化を発達させてきました。
しかし、否定できる文化に育った人は意見を言うのも楽だし、サクッと否定できる。
それは、思いやりがないのではなく、相手もまた同様に「言う」ことができることが前提になっているから言える。
ですから、どちらもコードにしたがっていれば、それなりにフェアなのです。
問題は前提となるコードが違う文化圏の人とのコミュニケーションです。
相手の土俵を知っておいたほうがいい
ケント・ギルバートさんの日本語は完璧かつ明晰ですが、ときどき番組内で日本人の共演者が対応に困っていることがあります。
ケントさんは意見を言っただけなのですが、番組の流れにのっていないときは共演者とくに司会者が困るのです。
これはケント・ギルバートさんだけでなく、外タレと呼ばれる人たちが出演する番組で往々にして起こりうることです。
そして、私たちの問題は、その逆パターン。
当の日本人が曖昧さを好み、意識的に曖昧に表現しているのならいいですが、自分が曖昧に表現しているという自覚さえなく、明晰な表現がしたくてもできないとなると、いつもの前提が成り立たない環境においては大きな問題となります。
日本人が外国に出たときに困るのは外国語能力が無いことばかりではなく、論じ主張する能力を磨いていないことなのです。
それまで言ったことがないようなことを日本の外に出ると、突然しかも外国語で言わなければならない羽目に陥る。それは非常に困難。というより、まず不可能です。
日本は俳句や和歌のような短い詩を好む国で、日本人は四の五の言わないことに美を感じています。
古くて恐縮ですが、かつて「男は黙ってサッポロビール」というテレビCMもありました。
非言語表現を重んじる文化に育った日本人は、雄弁な文化背景を持つ人たちには言葉では敵いません。
雄弁な国の人たちとコミュニケーションを上手に取りたければ、日頃から自分の思考を言語化する努力が必要でしょう。
それができないと相手が日本語を話してくれたとしても意思の疎通が難しくなります。
日本語の達人ニック・エドワーズ
若い世代には日本語に堪能な外国人が増えているようで、特にニコラス・エドワーズさんの日本語には舌を巻いてしまいます。
YouTube「ニックちゃんねる」で堪能な日本語をこれでもかと披露されていますが、アメリカ人の両親のもとで生まれアメリカで育った正真正銘の外国人だそうです。
ある動画(↓)では「なぜそんなに日本語がうまいのか」に答えて「死ぬほど勉強しました」ということです。
語学に近道なし。納得です。
日本語が上達した理由【外国語を身につけるコツ】
「母国語である英語も(他の生徒に比べて)得意だった。母国語を深く理解した上で日本語を始めたのがよかった」と言っていたのが印象的でした。
母語の言語能力を外国語が超えることはまずない。
なぜ明治の日本人は外国語ができたのか?
ところで、日本人はいつも外国語が下手だったのでしょうか。
実は、そうでない時代もあります。
外国語を学ぶには強い動機が必要
明治の日本人は、よい辞書も音声教材もなかったのに、またたく間にドイツ語やフランス語を身につけ、留学し、技術や法律を学んで帰ってきているような印象があります。
また、明治政府は高いお金を払って外国人講師を日本へ招聘していました。
彼らはお国の言葉で授業をしましたから、学生は外国語ができなければ講義が理解できなかったはずです。
当時の日本人はどうやって外国語を勉強したのでしょうか。
同じ日本人なのに、この差は何でしょうか。
当時の留学生は選りすぐりのエリートだったから?
いや、外国に行ける余裕のある人、選ばれた人がそもそも少なかったのに、その少数の選ばれた人たちが、短期間に語学を身に着けたことのほうが驚愕です。
理由のひとつには強い動機があるでしょう。
外国語学習に絶対に必要なのは「しなければならない」気持ちです。
当時のエリートたちは日本の国運を背負っていました。
植民地にならないようにしなければならない。それには西洋に追いつき追い越さなければならない。優れた知識や技術があるならそれを学ばなければならない。知識を得るにはまず言語。外国語ができないと学べない。
一方、スケールは小さくなりますが、外国人の彼女や彼氏ができると該当外国語が上達すると言われます。
コミュニケーションを図りたければ相手の言語を学ぶのが手っ取り早い。これなども強い動機と言えるでしょう。
しかし、明治人の語学力は動機の強さだけで説明がつくものでしょうか。
バカにできない昔の勉強法
もう少し何かあるような気がする……と思っていたときに、
「昔の人には漢文の素養があった」
との一文を見つけました。
これではないでしょうか?
漢文は「国語」の一環として教わりますが、昔の中国語つまり外国語です。
あ~でもない、こ~でもないと理屈をこねる大陸文化の粋。
明治(以前)の人たちは理屈と弁論をこれで鍛えていたのではないでしょうか。
心理学者の河合隼雄氏は言っています。
私たちより上の年代の人と接していていいなあと思うのは、『論語』などを、子どものころにわけはわからないけれど素読させられていたから覚えているんですね。それを覚えていたままで、今度は英語をやったり、いろいろなことを勉強したから、そういうのが生きているんです。(河合隼雄・石井米雄『日本人とグローバリゼーション』講談社+α新書、2002年)
河合さんは1928年、つまり昭和1ケタ生まれですから、その上の世代とは明治生まれの人たちです。
そして「素読」とは、内容の理解は二の次で、「し~いわく……」と、とにかく音読する作業です。これを子どもの頃にやると丸暗記してしまいます。
明治以前の人には丸暗記学習の習慣がついていたから、ヨーロッパの言語もこの要領で学んだのではないでしょうか。
「丸暗記が遠いようで一番近道だ」とは外国語をマスターした人の多くが言っていることでもあります。
結論: (月並みだが)必要なのは丸暗記と論理
結論!
外国語学習に必要なのは:
- 丸暗記
- 筋道立てて物事を説くこと
何の変哲もありませんが、以上の習慣を身につけることが外国語上達の秘訣……と今のところ思っています。
丸暗記は語学学習そのものに役立つ方法ですが、論理的思考力はその先に必要なものです。雄弁な相手とコミュニケーションを図るには、両方が必要となるでしょう。
思考力はその生涯をかけて磨いていくようなところがありますが、暗記は今日から誰でもできそうです。
好きなセリフや名言を覚えたりするのもいいし(関連記事はこちら)、最近では無料アプリに良さげなのがあるようです(関連記事はこちら)。
最後まで読んでくださってありがとうございます。