発売ほやほやの海上知明『「義経」愚将論 源平合戦に見る失敗の本質』を読みながら、ご先祖さまについて思いを馳せてみました。
ご先祖さまは源頼光
母方は清和源氏。源満仲(912~997)・頼光(948~1021)の血筋。
後に名だたる戦国武将を輩出している清和源氏ですが、有名なのは多くは東国に下った源氏たち。頼光の弟の子孫です。畿内にとどまった頼光系には名将や大領主が少ないんですよね。
満仲・頼光親子は清和源氏の礎を築きました。
特に長男の頼光は酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話で知られる人。金太郎の幼名で有名な坂田公時は家来です。家来のほうが有名かも。
鬼退治には唄まであるようです(↓多田神社にて撮影)。
源頼光は、最近ではゲームやアニメのキャラにもなっています。
アマゾンで「源頼光」を検索するとトップは↓
巨乳の女性キャラが表示されてびっくり。ゲームの中の「源頼光」らしいのですが……。
さあ。史実では男性のはずです。
ご先祖さまについて聞いてみたけれど……
先祖代々の史実・伝説が私たち子孫にまで伝わっているというわけでもなく、自分の先祖のことでありながら、よく知らない。
強いてご先祖さまの影響があった話と言えば(↓)。
そこで中~近世日本史に詳しい海上知明(うなかみともあき)先生に聞いてみたことがあります。
中世合戦史の巨人・海上知明先生
海上先生は「ザ・先生」という感じの温厚な紳士です。
海上知明
1960年、茨城県生まれ。NPO法人孫子経営塾理事、昭和12年学会理事。日本経済大学教授を経て、東京海洋大学・芝浦工業大学などで教鞭をとる。戦略研究学会古戦史研究部会代表。『川中島合戦:戦略で分析する古戦史』(原書房)など合戦史についての著書多数。最新作は『「義経」愚将論 源平合戦に見る失敗の本質』(徳間書店)
海上先生は一見、朴訥で口下手そうに見えて、実は話し上手。博学多識な研究者です。
倉山塾のイベントでお会いしたことがあるのですが、参加者の質問に丁寧にお答えになり、しかもユーモアたっぷり。
すっかりファンになってしまいました。
ご子孫の方には言えません
私も何か質問しなくてはと、
私「源満仲・頼光はどんな人だったんですか?」
海上先生(困った顔で)「う~ん、ご子孫の方には言えません」
私「悪い人だったんですか?」
海上先生「う~ん、言えません」
ちょっと、がっかり。
後悔しましたが後の祭りです。
でも海上先生、それではあんまりだと思ったのか、しばらくしてから、
「現代的にたとえるなら、成功した警備会社の社長さんです」
と言ってくれました。
比較的新しい評伝が出ているようですし、自分で勉強してから、海上先生に答えていただけるように別の角度から、もう一度、お尋ねしてみようかな。
元木泰雄『源満仲・頼光』(ミネルヴァ書房、2004年)
海上知明『「義経」愚将論 源平合戦に見る失敗の本質』
そんな海上先生の最新刊は『「義経」愚将論 源平合戦に見る失敗の本質』(徳間書店、2021年10月30日発売)。
義経と言えば、最後は兄頼朝に殺されてしまう悲劇のヒーロー。
弱者・敗者に同情し応援する感情を「判官びいき」といいますが、その語源でもあります。「判官」は官職名ですが、義経の代名詞のようになっています。
『「義経」愚将論』アマゾンサイトの紹介文より
日本でもっとも人気のある武将の一人が源義経だろう。その人気とともに不動なのは義経が「名将」であるという軍事的才能の評価である。故司馬遼太郎氏をはじめとして、義経を「不世出の天才」と位置づける人は多い。しかし、そうした評価はきちんとした戦史の分析に基づくものだったのだろうか。
実はこれまでの「義経名将論」のほとんどは、義経が参加した戦いが源氏の勝利に終わっていることから「見事な作戦」を立てたと言っている結果論にすぎない。結果的に勝利した戦い方を称賛することは誰でもできる。それを名作戦とこじつけることはたやすい。しかし結果論にとらわれずに、中国の古典兵法書『孫子』や、義経が読んだとされる『六韜』をはじめとする古今東西の戦略書をもとに分析するとどうだろう。「一ノ谷合戦」「屋島合戦」「壇ノ浦合戦」を中心にして、様々な角度から義経の作戦を分析すると、あまりにも稚拙な戦術と戦略的思考の欠如という実態が浮かび上がってくる。さらに、義経の戦いを名作戦とすることで、日本の軍事常識が大きくゆがめられてきたこともわかってくる。兄・頼朝との確執の実態や奥州平泉の藤原氏との関係も含め、これまでの源平合戦の歴史を塗り替える画期的な論考。
義経は愚将
『「義経」愚将論』では従来の義経イメージが大きく壊されます。義経ファンは泣いてしまうかも。
映画やドラマの源義経役は、ほとんど必ず美男が演じますが、実はブ男だったようです。
「戦上手」も実はウソ。とんでもない愚将、というか将の資格なし。
『「義経」愚将論』は、これでもかと義経のダメダメっぷりを紹介している本です。
清盛は名将
『「義経」愚将論』にはアシスタントチーム倉山工房も制作に関わっています。
タイトルは義経ですが、担当者によると、海上先生の清盛愛が溢れ出ていたとのこと。
本を読んでもそんな感じ。
先生は義経を愚将とこき下ろす一方で、平清盛をとても高く評価しています。
清盛こそ名将。戦略家・戦術家としてはもちろん政治家としての戦争指導にも長け、とくに「平治の乱」は日本戦史上、完璧な戦いとベタ褒めです。ただし、人の良すぎるところが致命的だった。
頼朝や義経のように冷酷になれなくて、結局、平家滅亡を招いてしまいます。
源平合戦の流れは知っておいたほうがいい
海上先生、合戦シーンをとても詳しく書いてくださっているのですが、源平合戦の流れを知らないと理解が難しいかもしれません。
『「義経」愚将論』の中にも、いろいろな古今の著作が比較されていますが、代表的かつ最も有名なのは、やはり『平家物語』でしょう。
「祇園精舎の鐘の声」で始まる冒頭部を学校で暗記させられたことを覚えています。
そんな人には『1日で読める平家物語』(吉野敬介、東京書籍、2011年)をお勧めします。
著者は予備校の先生なので、わかりやすく、ユーモアを交えて平家物語全節を現代語に訳しています。
タイトルからすると薄い本をイメージしてしまいますが、400ページ以上あり、二段組の箇所もあります。
そこは工夫されていて、ざっと要旨をつかみたい人は一段組のページと太字だけ読めばいいようになっています。
それなら一日で読める……たぶん。
多田源氏の領地没収
話を戻します。
私個人としては戦略・戦術の話よりも、ときおり出てくるご先祖さまとその周辺が気になりました。
『「義経」愚将論』には、ご先祖さまの本拠地・多田荘の話もところどころに出てきました。
頼光の嫡流は多田荘(兵庫県東部の大阪よりの地域)に領地を持っていました。
源平合戦の頃は『平家物語』では、あまり芳しくない役回りの多田行綱が当主です。海上先生によると「裏切り常習犯」。
行綱は、義経と一の谷の合戦などで軍事行動を共にしていました。頼朝と義経が対立してからは頼朝側についたにも関わらず、頼朝は行綱の多田荘を没収してしまいます。
海上先生によると↓
これは陽成源氏(※)全体にとって象徴的な場所を頼朝の支配下に置き、自らが武門源氏のトップであることを示すとともに、自立性の高い京武者を没落させるためでもありました。(p250)
(※)通常「清和源氏」とされ、本記事でも「清和源氏」としていますが、実は清和天皇ではなく陽成天皇から出た源氏であるとの説が濃厚。後述参照。
頼朝の源氏の棟梁としての正統性はかなり怪しいものでした。
頼朝が源氏の棟梁とみられていたのは「前九年」「後三年」での源義家の活躍が義家を「武門の棟梁」と思わせ、その義家の家系で生き残った一番の年長者だったからにすぎないのです。(p251)
清和(陽成)源氏の嫡流(長男の系統)は頼光の子孫ですから、権威づけに必死だった頼朝にとっては行綱が邪魔だったんですね。
頼朝は地位を高めるためにあらゆる手段を講じます。
源氏の祖を「悪君の極み」陽成天皇から清和天皇へと捏造したのも頼朝でした。(p251)
傍流に負けた多田源氏
頼光の子孫は畿内に留まり、いわば出不精源氏。ほそぼそとやっていました。血筋だけなら頼光系の多田行綱が清和(陽成)源氏の正嫡のはずですが、武門の棟梁になるには実力も必要!
頼光の弟の子孫のほうがフットワーク軽く東国へ進出し、源平合戦の頃には実力を蓄え発展していました。結局、多田源氏は、その圧に負けてしまったのでした。
頼朝は義経ほか、多田源氏よりもはるかに近い身内を次々と粛清していきます。それも、権力掌握のためでした。こういうスターリン的な人物は日本史には珍しいのではないでしょうか。
戦略・戦術論がスゴイ!
海上先生の『「義経」愚将論』は中世日本の合戦がテーマですが、実は単なる昔の話ではありません。
技術も武器も違うし、昔の戦争など参考にならないと思いがちですが、戦略家・戦術家は今でも古代以来の戦史から多くを学ぶようです。そして名将の戦いは後世の人に影響を与えてきました。
ですからお手本となる「名将」は本物の名将でなければならない。愚将を名将と称えてはいけないのです。
娯楽として楽しむぶんにはいいですが、本物の軍人が史実の分析を誤り、間違った作戦を立てるようでは困ります。
海上先生は「義経愚将論」を広めることで、そんな誤りを正したいと本書を執筆されたようです。
大昔の日本の話なのにマキャベリとかリデルハートとかマハンとかが出てくるのがおもしろい。
戦略・戦術マニアにもおすすめです!
私はご先祖さまにひきつけて読みましたが、『もうひとつの平家物語』として読むもよし、『裏・義経記』として読むもよし。いろいろな読み方ができる本です。
来年(2022年)の大河ドラマが10倍楽しめる……かも!
紹介番組
通説をひっくり返す!特別番組「義経」愚将論 前編
なんでこんな人が天才あつかいされてきたのか?
同時代に義経を褒めた人は一人だけ。鎌倉の御家人からの評判は最悪だった。
梶原景時が「讒言」したことになっているが、梶原は正しかった!
義経は何も考えずに前に進んだだけで、実は、マトモに勝った戦いがない。
4回連続まぐれあたりの人。
義経名将伝説は室町以降のファンタジー。
通説をひっくり返す!特別番組「義経」愚将論 後編
源義経は戦争目的がわかっていないタダの人殺し。野蛮人。
800年間伝えられてきた義経イメージを全否定!
清和源氏発祥の地・多田
海上先生によると義経はボロクソ。
でも義経はご先祖さまの系統ではないので、まあ、いいです。
多田荘には多田神社があり、満仲・頼光・頼信・頼義・義家が祀られています。
はじめて聞いたときには、そもそも先祖の神社があることに、驚きました。
一度、お参りしたことがありますが、神社のそばに「清和源氏発祥の地!」と書いてありました。
たしかに今も昔も「陽成(清和)源氏にとって象徴的な場所」なのでした。
多田神社(当時は多田院)は室町時代には足利将軍家の信仰を受け、江戸時代には(本当は違うのに)清和源氏を名乗った徳川家に厚く保護されています。戦国の争乱で破壊されていた多田院の建物を再建したのは四代将軍家綱でした。そして五代将軍綱吉の時代には、満仲に正一位が授与されました。
まあまあ、そう言わずに!
行綱は領地を取り上げられましたが、多田荘には多田源氏の傍流が御家人として残ったといいます
おそらく、ご先祖様はそんな「傍流」の一族だったのでしょう。
多田源氏については奥富敬之『天皇家と多田源氏 摂関家の爪牙』という本も詳しいです。
(余談)三ツ矢サイダーは多田発祥
余談ですが、「三ツ矢サイダー」は1884年に兵庫県多田村平野から湧き出た炭酸水をびんに詰めて売ったことがその端緒。多田荘発祥の飲み物です。
そして実は「三ツ矢」の由来は満仲伝説なのです。
平安時代の中頃、源満仲という武将がお城を作ろうと神社に祈りをささげたところ、「矢の落ちた所に作りなさい」とお告げがありました。
矢を放つと、多田沼の“九頭の龍(くずのりゅう)”に命中し、満仲はここに城をかまえました。
そのときに矢を探しあてたのが孫八郎という者です。
満仲が孫八郎に与えた、「三ツ矢」の姓と三本の矢羽根の紋が「三ツ矢」の名前とブランドシンボル(矢羽根)の由来です。
(朝日飲料公式サイトより)
「三本の矢」というと毛利元就の話が有名ですが、満仲さんにも「三ツ矢伝説」があるのでした。
最後まで読んでくださってありがとうございます。