東京オリンピック開会式の音楽担当者、小山田圭吾が過去のインタビュー記事で悪びれずに堂々と自分がいじめた経験を語っていたことが問題となりました。
「またか」と思うほど、いじめ問題は後をたちません。
どうしていじめはなくならないのか、いじめをなくすためにはどうしたらいいのか、私なりに考えてみました。
以下、あくまでも個人的見解です。
学校におけるいじめの構造
人間は社会的動物なので、どうしても階級ができます。
民主主義国では一般社会における階級は流動的かつ見えにくくなっています。政治家や教師など先生と呼ばれる人びとの権威も失墜して久しい。
ただ、年齢という自然の階級はいまだに健在で、概して社会一般に通用しています。
ところが学校では同じ年の子どもたちを何十人と集め、クラスという単位を作り、ほぼ一日中、一緒に過ごさせます。はっきり言って異常です。こんな等質集団は学校のほかに、どこにもありません。
みんな同い年ですから、これといったアドバンテージがありません。
それがプラス方向に働けば切磋琢磨しあうことになるのでしょうが、マイナス方向に働けば、他人をおとしめて自分を相対的に上位にあげようとします。
本来、差のない集団で階級を作ろうとする。
これが「いじめ」が起こる構造であると私は考えます。
学校のように等質集団を固定して、学習、食事、掃除、イベント類、すべての活動を一緒にさせるなど「いじめなさい」と言っているようなものです。
つまり学校は、わざわざ「いじめ」の起こりやすい状況を作っているのです。
学校でいじめをなくすために
学校でいじめをなくすために、私が提案したいのは、クラスをなくすことです。
形式上のクラスがあってもいいですが、クラス単位で年がら年中、等質集団が一緒にいるよう強制しないことです。
つまり大学のようにする。大学では各人の取る科目が違うので、毎時間、教室にいる人間は違います。
大学でいじめというのはあまり聞きませんよね。まったくないとは言いませんが、高校以下より格段に少ないはずです。
小中高等学校でも、各教室に必ずしも同学年生を集めなくてもいいと思うのですが、いかが?
とはいえ、そんな大改革は行われるかどうか、行われたとしていつになるかわかりません。
そこで、いますぐなんとかしたい人の解決策も考えてみましょう。
いじめを避けるには
いじめそうな人のそばに寄らない
いじめを避けるには、いじめそうな人に近寄らないことです。
私は本能的に危険人物がわかったので、できうる限り避けまくりました。狭い教室の中で、これはなかなか厳しいものがあり、場合によっては孤立も辞さない覚悟が必要です。
いじめグループに入らない
クラスが一丸となっていることは珍しく、たいてい仲良しグループに分かれています。そこで、ちゃんとしたグループを選んで仲間に入ることが大事です。
どこもかしこも危険グループだらけというときは、たとえ孤立してもどこのグループにも入らない。
いじめる方も視界に入るからいじめたくなるので、いじめっ子の視界にそもそも入らなければいじめられることはありません。
ただし孤立していることで逆に目立ってしまう(視界に入ってしまう)こともあるので、立ち居振る舞いの塩梅(あんばい)が難しいところです。
「相対的」に成績がいいと危険
相対的に成績のいい子が危ない。ここで「相対的に」がミソ。
いじめが起こりやすいグループは、たいてい悪い子ちゃんグループです。メンバーの成績は概してよろしくない。そこに「やや」成績のいい子が入ると、「いい子ぶっている」などと言われて、いじめの標的となりやすい。
いい子ぶっているのではなく、本当にいい子なんですけどね。そこがまた悪い子ちゃんたちには面白くない。
「ややいい子」は間違っても悪い子ちゃんグループに入らないこと。
いじめられっ子の救済方法
グループが別れている場合の救済は可能
上のような構造で起きているいじめの場合、悪い子ちゃんたちからいじめられている子は、悪い子グループの面々の中ではマシな人物なので、良い子グループに呼んであげることができます。
その子が良い子グループに居つけば「いじめ」は、それで解決します。
他グループの子をいじめたらグループ抗争になるので、それはなかなかしない。
いじめはたいていグループ内で始まり、グループ内で終わります。
そして、いじめの起こるグループでは、いじめる相手がいなくなったら、新たに標的を作り出します。
救っても救われないケースも
おもしろいのは(?)、そうやって他グループが受け入れた子が元のグループに戻っていく場合があることです。
もともと悪い子ちゃんグループにいた子なので、親和性があるのでしょう。自分がいじめられさえしなければ、元のグループのほうが居心地がいいようです。その場合、またいじめられる可能性も大いにあります。そうなったら、もう他グループからの救済は望めません。
なお、クラスがひとかたまりになっているときは、残念ながら、クラスメートによる救済は難しいので周囲(大人)からの救済が必要でしょう。
人間は排除するように進化した!?
密かに尊敬されているいじめられっ子
いじめ問題を考えながら、かつて同級生がいじめられっ子について言っていた言葉を思い出しました。
「あの子のこと尊敬する。よく毎日、学校に来られるなあと思う。あの勇気はすごい」
自分だったら、とても学校に通えないという正直な感想でしょう。皮肉でも何でもない心の底からの声。
ただ、いじめられっ子は救える場合と、救えない場合があります。
挨拶しても、うんでもすんでもない。会話の成り立たないような人は誰も友達になりたいと思わないので、他グループも救いの手をさしのべないわけです。
小山田圭吾のケースは障碍者をいじめたということですから、このケースに近いように思われます。
和光学園は障碍者を積極的に受け入れている学校らしいですが、「わが校はこんないいことをしていますよ」と、ただ障害児を受け入れるだけでなく、どうやって障碍児と接したらいいのか、その辺の指導が不十分だったのではないでしょうか。
メンタリストDaigoの小山田圭吾いじめ自慢問題分析
メンタリストDaigoさんが、動画「【心理学的考察】小山田圭吾さんのいじめ自慢問題について話します」で面白い分析をしていました。
https://www.youtube.com/watch?v=63X2iCGF3io
Daigoさんは、「小山田圭吾の行為をかばうつもりも批判するつもりもなく、心理学的分析である」と最初に強調した上で、(かなり要約すると)「人間は協力して働く、例えば狩りをするという方向に進化したので、協力しない人を排除するのは人間の本能だ」と話していました。
もしそうだとすると、積極的に障碍者を受け入れている和光学園の健常者の生徒たちは、排除本能をより刺激される環境にいたことになります。
学園側には通常の学校よりも、いじめ問題ほかに気を配る必要性があったはずですが、サポート体制は充実していたのでしょうか。気になるところです。
閉じた空間では、いじめが起こりやすい。
学校以外の社会にもいじめはありますが、いずれにしても閉じた空間で起こりやすいものです。
例えば、同じ人と毎日、顔をあわせるデスクワークのホワイトカラー。
どこぞの学界。
古くは伊藤左千夫の小説『野菊の墓』なども、家庭内でいじめ殺される話でした。
人の出入りの激しいところではいじめは起こりにくいでしょう。
いくつもの世界を持ってリスクヘッジ
今現在、流動性のない世界にいる、そこから離れることができない場合はどうするか。
学校や会社など、そこしかないと思うと苦しいですが、別の世界を持っておけば逃げ道ができます。
一つの社会・コミュニティではなく、いくつもの世界を持つようにすることで人生に行き詰まった感は緩和されます。
いよいよとなったら別の世界へ軸足を移すこともできるかもしれません。
長期的なリスクヘッジを考える上で、今現在いじめなどに遭っていない人も、さまざまな可能性をあらかじめ探っておいたほうがいい。いざ困難な状況に陥ってから世界を築くのでは遅いからです。
「違う世界もあるんだよ」と言ってあげよう
大人は、ある程度自分で環境をコントロールできますが、子どもはそうはいきません。
物心ついたころに小学校に入りますから、自宅と学校しか知らずに育ちます。そんな子どもたちは学校がすべてと思っている、あるいは、思わされています。
「違う世界もあるんだよ」
と周囲が別の世界・別の可能性を示すことで希望をもたせてあげることはできるのではないでしょうか。いじめられている子はもちろん、そうでなくても。広い視野を持つことが大事です。
さらに、いじめる側も要は暇なのだと思います。高い目標を持っていたり、やりたいことに夢中になっていれば、いじめのようなくだらないことをしている暇はない。
自分の世界がないから、小人閑居して不善をなすわけです。
権力闘争はいじめと似て非なるもの
話は変わりますが、2018年の自民党総裁選後、安倍首相(当時)が石破派を閣内から排除したことをもって「石破派いじめ」のような言い方がされましたが、あれは権力闘争です。
権力闘争とは、強い者同士が戦って、勝ち負けが生じること。弱い者いじめとは話が全然違います。石破派のケースは、いわば「強い者いじめ」。
学校における権力闘争の一例
学校でも「権力闘争」を見たことがあります。
小学校の頃のこと。女子の世界では各クラスに女王様がいました。ところがクラス替えの結果、元1組と元2組の女王様が同じクラスになってしまいました。
その結果、1組の女王様のほうが強かったんですね。
「あの子、生意気じゃない。無視してやろうよ」
という元1組の女王様のかけ声のもと、2組の女王様は無視されてしまいました。
私は元2組で、かつての女王様のわがまま放題を見てきているので、当時は彼女の自業自得と思いました。ことさら無視するようなことはしませんでしたが、積極的に声をかけてあげることもしませんでした。
しかし、大人になってつらつらと思い出してみると、元2組において女王様は悪気はなかったと思うのです。
他に一人でも「なんであなたばかり決めるのよ」「勝手なことばかり言わないでよ」と言う子がいたら、たぶん何か自分が悪いことしていると気がついたでしょう。元2組の女王様は、そこで「あの子、生意気」のような逆恨みはしなかったと思います。その意味では周りも悪かった。
かの女王様、基本的に明るくて気性の真っ直ぐないい子なのです。その証拠に弱いものいじめは絶対にしませんでした。逆にいじめている子を見つけると「かわいそうじゃないの!」と叱りつけるような気持ちのいいところがありました。
ただ、わがまま。
ぜんぶ自分で取り仕切って、思い通りにならないと癇癪を起こす。そのために普段チヤホヤしている取り巻き連中も陰では悪口を言っていました。
わかっていたら直したでしょう。
権力闘争の敗者は復活する
元1組の女王様も陰湿なタチではなく、相手がおとなしくなればよかったわけで、元2組の女王様をいじめ続けるようなことはしませんでした。とはいえ、クラス替え後の1年間、元2組の女王様は、いつもシュンとしていました。
数年後、元2組の女王様とまた同じクラスになる機会がありました。そのときには、元通り明るくて活発な、それでいて昔のようなわがままを言わない、協調性のあるいい子になっていました。他人の気持ちがわかるようになったのでしょう。
このケースもいじめと言えばいじめですが、安倍首相に干された石破派のような強い者いじめですね。強い者と強い者が戦って、片方が破れた。
そして、元2組の女王様は負けた後、再起しました。
学年が上がるにつれて意味のわからないいじめが増えた
社会的に問題となるいじめは弱い者いじめです。
権力闘争の敗者は復活しますが、弱い者いじめの被害者はその後の人生でも大きな痛手を負ったまま過ごすことが多い。
よく「いじめなんてどこにでもあること、そうやって強くなるのだ」という意見を聞きますが、彼らの言う「いじめ」は、おそらく権力闘争か突発的な喧嘩のたぐいでしょう。
学校でのいじめは本人には何の非もなく起こります。しかも、学年が上がるにつれて、わけのわからないいじめが増えたように記憶しています。
「フケがついていた」でいじめ
もはや、どうして、その子がいじめられているのかわからない。
「フケがついていた」とか「トイレでウンチをしていた」が、いじめのきっかけになったりする。
フケなど誰でも落ちます。特に私の中学では制服が紺だったので目立ちました。
そして、トイレとは小便や大便をするところです。
そういう正論(というほどのこともない当たり前のこと)が通用しない世界です。
完全に頭がおかしくなっているとしか思えません。
不登校生徒の増加は「問題」ではない。さっさと逃げよう
狭い世界しか知らないことによる鬱屈感。受験(成績)によるストレス。家庭内不和。子どもたちはさまざまな不安やストレスを抱えています。私たちの時代もそうでしたが、それは時代が下るにつれてひどくなっているように見受けられます。
私たちの頃は小学校受験は非常に稀。中学受験もクラスに一人ぐらいでしたから、庶民には無縁の世界。少なくとも幼稚園児や小学生には「受験」ストレスはありませんでした。
1980年代はジャパン・アズ・ナンバーワンと言われ、日本は押しも押されぬ経済大国。まさか、失われた10年、20年、30年……などという時代が来るとは夢にも思いませんでした。
社会的には明るい時代であったと思います。それでも、がんじがらめの学校は暗かった。
社会も暗い今、学校生活はさらに暗く、いじめ被害も増えているのではと推測します。
いじめは表面化しにくいので統計が当てになりませんが、不登校の生徒数が参考になるかも。案の定、年々、増えているようです。
通信制高校・高等専修学校ニュースによると令和元年度の不登校生徒数は以下の通り。
小学校 | 53,350人(0.83%) |
中学校 | 127,922人(3.94%) |
高等学校 | 50,100人(1.58%) |
平成21年度データでは、小学校22,327人(0.32%)、中学校100,105人(2.77%)、高等学校51,728人(1.55%)です。10年で、小学校は倍以上に、中学校は約1.3倍、高校は割合としては微増ですが総数はむしろ減っています。
たしかに増加しているようですが、総数は意外と少ないという印象を持ちました。最も多い中学校でも約4%。100人に4人ですから1クラスに1~2人程度です。
まかり間違えば殺されてしまうのですから、そんな命の危険があるところに行ってはいけません。さっさと逃げるべきでしょう。
根本的解決は等質集団固定制の打破
ところで、いじめられっ子個人は逃げることで救われるかもしれませんが、それで根本的な解決にはなりません。
いじめの起こるような集団では、いじめる相手が消えれば、新たな標的を探し出します。
小山田氏はじめ、いじめる側の人間をかばうつもりはありません。いじめをするような人間はいじめをしなかったとしても、ろくなことはしないでしょう。
しかし、どうせろくなことをしない人間に、よりによって、いじめという罪のない人を傷つける犯罪に向かわせているのが学校という場です。
いじめをなくす・緩和するには学校のあり方(等質集団固定制)を抜本的に変える必要があると考えます。
クラスを一日中固定せず、科目単位で受講できるようにする
それだけで一日中いじめられることはなくなるでしょう。
さまざまな学年の生徒が集まるところでは、昔の寺子屋のように同じ部屋に6歳もいる、10歳もいる、12歳もいるという環境になります。そこでは、(少なくとも今あるようなわけのわからない)いじめが起きにくいことは感覚的に納得できるのではないでしょうか。
いじめが絶対に起きないとは言えません。しかし大きい子が小さい子をいじめたら卑怯者です。「いじめられるほうも悪いのだ」などという理屈は通りません。
おのずとブレーキがかかり、節度が保てるでしょう。
たしかに報道されるいじめは、ひどいものばかり。「いじめ」を通り越して犯罪です。尋常な精神状態の持ち主とは思えない。
しかし、犯罪をなんとも思わない人間を作り出しているのもまた学校です。これについては機会があれば別の記事に書きます。
最後まで読んでくださってありがとうございました。