タイトルだけは有名だけどあまり読まれない本……その名は古典。
でも、実際に読んでみるとびっくりすることが多いです。
「そういう本だったのか!」
イメージと全然ちがう。
「万人の万人に対する闘争」で有名なホッブズの『リヴァイアサン』もそんな本でした。
倫理や歴史の授業で習って、タイトルは覚えているけれど、読んだ人は少ないのではないでしょうか。
光文社からよみやすい訳本が出ています。
トマス・ホッブズ(1588~1679)について
トマス・ホッブズについて用語集的にまとめると↓こんな感じ:
イギリスの哲学者・政治学者。イギリス革命中に国王特権を擁護した著作により、議会から逮捕されることをおそれ、フランスに亡命。その間に『リヴァイアサン』を執筆した。各人が生存権を自由に主張すれば、最後は万人の万人に対する闘いになると説く。
「リヴァイアサン」は旧約聖書に出てくる海の怪物で、強い国家を象徴。
近頃では清教徒革命やピューリタン革命でなく「イギリス革命」と言うんですね。名誉革命などとあわせて「イギリス革命」と言う場合もあるから、ややこしいと思うんですが。
古い本だからこそのおもしろさ
現代ではポリコレ(ポリティカル・コレクトネス:政治的な正しさ)が行き過ぎて、「正しい」とされていないことを言うと非難される状況が生まれ、言論統制あるいは自主規制のようになっていますが、昔はもっと表現が自由でした。
ホッブズは17世紀ヨーロッパの人。ポリコレのない言いたい放題の文章は痛快ですらあります。
もっとも背景となる社会が、ぜんぜん違うので、よくわからないところや納得できない文章も多々ありますが。
教科書や用語集からは想像できない『リヴァイアサン』のおもしろさを紹介していきたいと思います。
定義の鬼ホッブズ 第6章は「神の辞典」!
『リヴァイアサン』、政治のことがかいてあるのかと思ったら、第1部は人間の性質について語っているのでした。
〈希望〉欲望は、達成できるという見込みをともなうと、「希望」と呼ばれる。
〈絶望〉そのような見込みの立たない欲望は、「絶望」という。
〈自信〉揺らぐことのない希望は、「自信」
〈自信の欠如〉絶望が絶えずつきまとうと、「自信の欠如」。
〈大様(おおよう)〉毒にも薬にもならないようなことに対して無頓着であることは、「大様」。
〈豪勇〉戦死や戦傷の危険に直面したときに大様に構えるのは、「豪勇」「豪胆」。
〈気前〉富の使い方が大様であるとき、「気前がよい」という言い方をする。
〈吝嗇(りんしょく)〉富の使い方において小心であることは、それを好ましいと見るか、それとも好ましくないと見るかによって、「意地汚い」「吝嗇家」「倹約家」など、それぞれに見合った言い方がされる。
〈親切〉社交のために人に好意を示すのは、「親切」。
〈恐慌(パニック)〉なぜ恐れるのか、何を恐れるのか……それさえ分からないままに恐れをいだくことは、「パニック」と呼ばれる。
〈無力感〉力不足を自覚することから来る憂いは、「無力感」である。
ひょっとして『悪魔の辞典』?
ビアスの『悪魔の辞典』ほど皮肉屋ではありませんが、ホッブズの『リヴァイアサン』もけっこう辛辣です。
読めば読むほど本当のことですし、真理をついているので、いわば「神の辞典」?
まるで箴言集
国家について語っているはずが、読めば読むほど人生論。
心理学者か社会学者、はたまた宗教家のようです。
富が権力に結びつくには気前の良さが必要
富も、気前の良さと結びつくと権力になる。なぜなら、それによって友人と使用人を手に入れることができるからである。しかし、気前が良くないとそうはいかない。なぜなら富があるだけでは、身を守るどころか嫉妬に身をさらすことになり、嫉妬の餌食になるのが関の山だからである。
事業で成功し、その成功を維持し続けている人たちも同じようなことを言います。
「取引相手も得をするような形で交渉しなければならない。自分の損得だけ考えていると、たとえ成功しても、すぐに失敗する」と。
ケチケチしていてはダメなんですね。
学問はたいした権力にならない
学問は小さな権力である。なぜなら学問は目立たないからである。学問があるからといって世間から認められることはない。一握りの人々を除けば、世間からまったく相手にされない。……これは学問というものの特殊性による。学問を十分に身につけた者でないと、相手に学問があるということが理解できない。
大きな権力にはつなげるにはそれだけではダメなんでしょうね。
幸福とは道である
この世の幸福は満ち足りた心の安らぎにあるのではない……なぜか。第一に、いにしえの道徳哲学者がその著作に書いているような、究極の目的とか至高善とかいったものは、存在しないからだ。第二に、欲求が尽きると、感覚と想像力が停止した場合と同様に、もはやいきてゆくことができないからだ。幸福とは欲求がある対象から他の対象へと絶えず移進んでゆくことであり、何かを達成するということは、別の何かに至る過程にすぎない。
ゴールはない!
歩んでいる道そのものがゴール!
あせりは禁物
才知に欠けているという自覚がある者は暴動や叛乱の際、みずからの知力と機略を恃(たの)む者と対照的に勝ちを急ぐ。……裏をかかれるのではないかと不安に駆られ、先制攻撃に走ろうとするからである。
あせって失敗する人いますよね。
そして、そういうヤツに限って↓。
虚栄心の強い者は、大いに能力があると胸中に自信を秘めているわけでもないのに、自分を勇壮な人物に擬することに喜びを見出す。だが、体裁を取り繕うばかりで実行をともなわない。
陰謀論を言う人、信じる人
現代人にも耳が痛い警句(?)が続いていますが、人間の行いは昔から変わらないのだな、とつくづく思います。
条理にかなった原因を知らないと、人の話を信じやすくなる。往々にして、あり得ない事がらすら信じてしまうほどである。どうしてそうなるのか。反証となるものを一切知らず、「それは真実かもしれない」ということしか分かっていないからである。つまり、あり得ないことだということを見抜けないからである。また、人は耳を傾けてもらうことを好むので、造作なく信じてもらえるとなると、人前で嘘をつきたくなる。
そうやって巷に陰謀論があふれていくんですね。


身も蓋もないところがクセになる
寅さんではありませんが「それを言っちゃあおしまいよ」の身も蓋もない文章が並んでいます。
リップマン『世論』(関連記事はこちら)とともに、現代への警世の書。
リップマンは20世紀なので近現代ですが、ホッブズは17世紀。
いろいろと人間の性質について論じた後に、
人間はこういう性質があるから自然状態では「万人の万人に対する闘争」になってしまう。だから、国家が必要なんだよ~。
と続くわけですが、政治論より人間論のほうが個人的には興味深いものがありました。
すべて納得がいくわけではありませんが、細かく言葉の定義をしている部分がツボにはまりました。
いい意味で期待を裏切られました。
『リヴァイアサン』で日本の幸福を思う
第2部「国家について」にも興味深い記述はたくさんあるのですが、国家や法律などテーマが大きくなり1記事に収められそうにありません。
なので第2巻からは「総括と結論」より、ひとつだけ。
世界中どこを探しても、みずからの発祥を良心に照らして正当化できるような国家はほとんどないのである。
どの国も武力によって征服し、征服されてできあがっています。
とくに新しい国、王様が変わったり、体制が変わったりした国では、支配者の正当性が問われます。
「みずからの発祥を良心に照らして正当化できる国家」
日本も、古事記や日本書紀の記述から、太古の昔は内乱状態にあったと推察されます。しかし、現代日本人はもはや自分が征服者の子孫なのか、被征服者の子孫なのか、わからない人がほとんどでしょう。
歴史時代に入ってからは、内乱はあったけれども、征服者が被征服者の上にのっかって支配階級を構成するという形にはなっていません。どちらかといえば企業のM&Aや会社社長の交代劇みたいなものでした。
日本は「みずからの発祥を良心に照らして正当化できる国家」に限りなく近いと言っていいのではないでしょうか。
一度だけアメリカに占領されましたが、占領軍は支配者として居座ることなく、戦後数年で去っていきました。
細かいことを言い出すときりがありませんが、とりあえず、そういうことにしておきます。
当たり前が当たり前でなくなったときに書かれた『リヴァイアサン』
日本は国が断絶したことがないために、日本人は国家や領土ほか多くのことを自明と考えています。
しかしヨーロッパ人はそうではありませんでした。
ホッブズは内乱を憂えて『リヴァイアサン』を書きました。
国家の前提、当たり前のことが当たり前でなくなり、あえて当たり前のことから確認していかなければならなかったホッブズの『リヴァイアサン』。
「万人の万人に対する闘争」というキーワードだけで語られがちですが、その前後がおもしろい本です。
実は『リヴァイアサン』には第3部、第4部もあるのですが、延々とカトリック批判です。
光文社古典新訳文庫版では割愛されていて、原書では第四部のあとに置かれている「総括と結論」を第2部の後に挿入して全2巻となっています。
読みやすい訳文なので光文社版で紹介してきましたが、全文を読みたい方は第3部以降は別の本を読むしかありません。
たとえば岩波文庫版(全4巻)は全訳です。
『リヴァイアサン』で日本の幸福を考える
日本には日本という国があって、これからもずっと続いていくことが当たりまえのように思われています。それを幸せとは感じない人が多い。
しかし『リヴァイアサン』を読むと、改めて日本の幸運に思いを馳せることができます。
長年にわたって連続的に国づくりが行われてきた幸運。世界の多くの地域のように、近代に入ってからにわか仕立てで国づくりをしなくてよかった幸運。
国家の前提について考えさせられる『リヴァイアサン』、いちど読んでおいてはいかがでしょうか。
最後まで読んでくださってありがとうございました。