「ドイツとは? いつからドイツ? どこまでドイツ?」(1)では意外とローマなドイツについて紹介しました。
今回は中世~近代まで。
テーマが「いつからドイツ? どこまでドイツ?」なので、戦争など大事件の中身については割愛し、領土がどのように変化していったかに焦点を当ててドイツ史をたどります。
西ヨーロッパを作ったカール大帝
1~2世紀の盛期ローマ帝国が3世紀の危機を経て弱体化し、
395年 ローマ帝国、東西に分裂
476年 西ローマ帝国滅亡
その後の西ヨーロッパで勢力を伸ばしていくのはゲルマン人の一派フランク族です。
最盛期を現出したカール大帝の時代には下の色つきの部分がフランク王国とその影響圏におさまります。
まだ「ドイツ」らしいものはどこにもありません。独仏伊連合といった感じです。、
東フランク ドイツのめばえ
ゲルマン人は父が死ぬと息子に均等分割していました。
カール大帝には息子が三人いたので、フランク王国は東と西と真ん中に三分割されます。
現在のドイツ・フランス・イタリアの礎と言われます。
東フランク(地図上の赤い部分)は、たしかに現在のドイツにかなり近い領域を示しています。
しかし当然ながら、この領域がずっと現代まで維持され続けてきたわけではありません。
神聖ローマ帝国
細かな国の連合体 皇帝のいるEU
カール大帝の血筋が絶えると、フランクでは選挙で皇帝を選ぶようになります。
のちに「神聖ローマ帝国」と呼ばれる国です。
いちおう
962年 オットー1世の戴冠
以降が「神聖ローマ帝国」ということになっています。
最大で↓のような感じ。
カラーの部分が神聖ローマ帝国なのですが、領域内には細かい国々がモザイク状に散らばっています。
神聖ローマ帝国はひとつの国というより、国々の連合体でした。
いわば皇帝のいるEU(ヨーロッパ連合)のようなものです。
ローマなきローマ帝国
神聖ローマ帝国は17世紀半ばには下図↓のように。
バラバラなモザイク状態は相変わらず。
この頃にはイタリア半島は版図にありません。
のちに18世紀のフランスの哲学者ヴォルテールには「神聖でも、ローマでも、帝国でもない」と言われてしまいますが、たしかに、もはやどうして「ローマ帝国」なのか理解に苦しみます。
ドイツ民族の神聖ローマ帝国
ちなみに日本語では「神聖ローマ帝国」としか言いませんが、ドイツ語では「Das Heilige Römische Reich Deutscher Nation(ドイツ民族の神聖ローマ帝国)」です。
最後の「ドイツ民族の」は15世紀ごろから付加されるようになりました。ドイツ人の国であることが意識されるようになってきたのでしょう。
15世紀以降は皇帝位はハプスブルク家が世襲しています。
皇帝の居城はウィーンのホーフブルク宮殿。
つまり現在のドイツ語圏南部が「ドイツ」の中心でした。
プロイセンの発展
18世紀には「ドイツ」にもうひとつ強国が現れます。
北東部のプロイセンです。
地図上右上のオレンジがもともとの「プロイセン」で現在はポーランドまたはロシア領となっている、かなり東にある地方です。
中心は「プロイセン」ではなくブランデンブルク
世界史教科書に突然あらわれる「プロイセン」。
プロイセン(プロシア)
13世紀ドイツ騎士団領を基に形成されたバルト海沿岸の国。1525年、ホーエンツォレルン家出身の騎士団長のルター派改宗以降、プロイセン公国と名乗った。1618年、ブランデンブルク選帝侯国と合邦、1701年スペイン継承戦争での神聖ローマ帝国への軍事援助を背景に、王国への昇格を許された。(山川出版社『世界史用語集』より)
ドイツ騎士団領を起源とし、プロイセン公国、プロイセン王国と昇格していくのは事実ですが、「プロイセン」が周囲の地域を飲み込んで拡大したのではありません。主軸はあくまでベルリンを中心とするブランデンブルクでした。
地図「神聖ローマ帝国(1648年)」最北東のオレンジがブランデンブルクです。
地図「プロイセンの発展」の真ん中の薄いオレンジと形が同じですね。
このブランデンブルクがプロイセン公国を併合したというのが正しいとらえ方であって、逆ではない。
ブランデンブルク門
1791年に完成したベルリン新古典式建築の傑作ブランデンブルク門はベルリンのシンボルです。
第二次世界大戦後、東西ドイツをわけるベルリンの壁はこの近くを通っていたので、冷戦時代は分断の象徴、そして冷戦後はドイツ統一の象徴でもあります。
ブランデンブルク協奏曲
また、バッハの『ブランデンブルク協奏曲』が有名ですね。ブランデンブルクの貴族クリスティアン・ルートヴィヒに献呈されました。
苦しまぎれのネーミング「プロイセン王国」
ドイツ王=神聖ローマ帝国皇帝であり、ほかの諸侯は王を名乗ってはいけなかったのです。
プロイセンは神聖ローマ帝国の外、はるか東方にあります。
たとえるならイギリス貴族がイギリスで王様になれないからアメリカに領土を得て、そこの支配部族・地域名を取って「オレ、アパッチ王だぜ~」とか名乗りだしたようなもの。
のちに神聖ローマ帝国内の比較的大きな領邦であったバイエルンやザクセンが「王国」になりますが、それはフランス革命後のナポレオン時代、神聖ローマ帝国が名実ともに解体した後の話です。
それまでドイツの領邦国家の君主は王を名乗れず、最も格の高い称号は「選帝侯」でした。皇帝を選ぶ権利を持っている諸侯です。ブランデンブルクの領主も「選帝侯」でした。
オーストリアから領土シュレージエン(シレジア)を奪う
プロイセンの発展とともに「ドイツ」の核がオーストリアとプロイセンの2つになり、両者がしのぎをけずって張り合うこととなります。
18世紀初頭には皇帝にゴマをすってなんとか「プロイセン王」の称号を認めてもらっていたブランデンブルク・プロイセン。
半世紀も経たないうちに頭角をあらわし、フリードリヒ2世(大王、1712~86)時代にはオーストリア(つまり皇帝領)に戦争をしかけて領土(独名シュレージエン、英名シレジア)を奪っています。
↑地図右上の青(+その右の青い線で囲まれたベージュ色)が18世紀後半のブランデンブルク・プロイセン領です。
飛び地ですが、それもブランデンブルク・プロイセン領。
プロイセンはオーストリアと拮抗する大国にのし上がりました。
最終的にドイツの盟主となるのはプロイセンかオーストリアか?
(「ドイツとは? いつからドイツ? どこまでドイツ?(3)」につづく)