前回に引き続き私が翻訳した本、ミラン・リーズル『聖書の奇蹟 イエスと超能力』(Milan Ryzl, Biblical Miracles, Jesus and ESP, 1973)を紹介します。
翻訳は1997年に出版されました。
ミラン・リーズル三部作で最も売れた本
新評論の二瓶社長から「単発より何冊かシリーズにして出したほうが売れるだろう」との話で、ミラン・リーズル博士の本は、当初から三冊出してもらえることになっていました。
『死後世界の探究』に続いて『聖書の奇蹟』は第二作目です。
今思えば、何の実績もない大学院生(出版時には卒業)を、よくぞ信頼してまかせてくださったと新評論の二瓶一郎社長(当時)には深く感謝いたします。
『聖書の奇蹟』は三部作中、一番太いのですが(約340頁)、最も売れた本となりました。
会話体の部分が多く読みやすかったのではないかと思います。
また実験結果ですから、博士の思いや主張を語った部分は少なく、資料性があります。
催眠によって導かれたトランス状態で過去を透視!
『聖書の奇蹟』は超心理学上の実験の記録です。催眠によって超感覚的知覚(extrasensory perception: ESP)を目覚めさせた被験者が時空を超えてさまざまなヴィジョンを見ます。
ESPとは平たく言って超能力。ESPによって壁の向こうや箱の中、離れたところや、過去や未来のできごとを直接とらえることができます。
リーズル博士によると、ESPは実は誰もが持っている能力です。しかし、いつでも思い通りに使える力ではなく、ふつうは、ごくまれに条件がそろったときに使えるだけです。
その「まれな条件」のひとつがトランス状態。
催眠によってトランス状態になった被験者を聖書の記述を確かめる旅へいざないます。
超心理学と超感覚的知覚(ESP)の可能性
『聖書』に語られている奇蹟、そこで実際には何が起こったのか、過去にさかのぼって透視する。
これを怪しげに感じる人も多いかもしれません。しかし本書は生の実験結果なのです。「聖書の記述は正しい」とか「実はこうだったのだ」と主張しているわけではありません。もちろん実際にそうだったかもしれないけれども、それを証明するにはこの実験結果では不十分です。
もっともらしく見せようという意図があるなら、成功した実験結果だけ並べて見かけの説得力を高めることもできたでしょう。しかし著者は失敗例も記して実験が万能でないことを読者にうったえています。リーズル博士の意図は、超心理学やその実験結果を「信じてもらう」ことではなく、誤りも含めて正しく理解してもらうことにあるのです。
著者によると、『聖書の奇蹟』はESPの可能性をさぐる一つの試みです。人はみな、こんなふうに情報を把握することができます。しかし、まちがうこともあるので注意しなければならなりません。最初は信頼性が低くても、訓練によって精度を高めることができます。
そして、本書はそんな人間の潜在能力の可能性をさぐる試みなのです。
著者が発表をためらったドラマチックすぎる実験結果
実験は1948~49年にチェコスロバキア(当時)のプラハで行われました。
リーズル博士はこの本の出版を四半世紀ためらったといいます。いわく:
生の実験結果であって、フィクションではない。しかし隅々まで科学的研究成果として信頼に足るものだと言い切ることはできない。
退屈な実験記録の羅列になるはずだったのが、幸か不幸かSF小説のようになってしまったからです。
トランス状態に入った被験者は魂について語り、イエスについて語ります。
くどいようですが「被験者たちがそう語った」は事実ですが、語った内容が真実だと言い切ることはできません。
そこを理解した上で読んでほしいと博士は『聖書の奇蹟』の中で何度も繰り返しています。
誤解されるのではないか、学問的にとらえてもらえないのではないか、そんな思いから長いこと発表されなかった実験でした。
魂とは、善とはなにか
実験では被験者が、イエスが行った数々の奇蹟、イエスの死などについても透視しています。
しかし、キリスト教徒ではない私個人にとっては「聖書の奇蹟」より被験者が魂のあり方や死後どうなるかについて語っているところのほうが興味深く感じました。
タイトルは『聖書の奇蹟』ですが、内容は『聖書』にとどまらないのです。
私が個人的に圧巻と考えているのは、トランス状態の被験者が「魂」や「善悪」について語っているところです。
「魂」が人生ではたす役割や、輪廻転生のしくみ、また「善」とは何か、「悪」とは。人生の大問題が語りだされます。
ここには奥深い哲学性があり、万が一、聖書の描写を確認する部分や「イエスとの対話」が被験者の幻想であったとしても、生きる知恵として人の心に響くものがあります。
「個人にゴールはなく、世界全体にある」「主観的に考えることをやめ、人類全体として感じるようにならなければ、その目的は達成されない」など語る言葉は、私にはときどき仏教的にも感じられました。
被験者がチェコの女子高校生であることを考えると、よりいっそう不思議な気がしました。
被験者を得られず実験は断念
非常に興味深い実験だったのですが、その後、それまでの被験者の協力が得られなくなりました。
1948年はチェコスロバキアで共産党が政権を握った年です。このような政治状況で実験の被験者を新たに探すことが難しくなったそうです。
ただ、それまでの被験者の協力拒否に関しては博士の自業自得的なところもあります。
実は被験者の一人は、実験中に自分が怪我をするところを見て(予知して)いました。
木曜日に体操クラブでつり輪から飛び降りたときに左足の腱を切ってけがをするなど状況を細かく描写した上に土曜日に医者に行くと言っていたのです。
実際に予知したとおりに木曜日に怪我をし、土曜日には痛みがひどくなり医者に行かなければなりませんでした。
被験者は、自分が実験中のトランス状態で語ったことは、催眠が解けた後に覚えていません。博士も警告しませんでした。そのため後に「言ってくれれば事故を防げたかもしれない」との不信感を持たれたのです。
リーズル博士は今後の実験計画を練ろうとして、それまでの達成状況について話し合いを持ちました。そのときに、この実験についても話したのです。博士としては被験者の気分を害するとは思っていなかったのですが、その後、協力してくれなくなったといいます。
少し天然なリーズル博士でした。
最後まで読んでくださってありがとうございます。