オーストリアの王女として生まれ、フランス王妃となり大革命で断頭台で最期を迎える悲劇の人マリー・アントワネット。
当時は王よりも憎まれたといいます。どうしてでしょうか。
今回は南仏モンペリエで香水商の一家に跡継ぎとして生まれたジャン・ルイ・ファージョンを中心に大革命前後のフランスを描いた本『マリー・アントワネットの調香師 ジャン・ルイ・ファージョンの秘められた生涯』(エリザベット・ド・フェドー著、田村愛訳、原書房、2007年)で調香師ファージョンから見たフランス革命そしてマリー・アントワネットを語ります。
フランスで認知度が低いマリー・アントワネット
著者のフェドーは、いちおう歴史家ですが、シャネル、ゲランほか香水メゾンのコンサルタントも務めているようです。
本書で2005年にゲラン賞を受賞したのだとか。
日本では『ベルサイユのばら』の影響かマリー・アントワネットは、その生い立ちから処刑までの一生について比較的知られていますが、フランス人の認知度は低いようです。
「『パンがなければブリオッシュを』という逸話くらいがせいぜいわたしたちの印象よ」と、私の周りのフランス人は語る。日本におけるマリー・アントワネット像とはおよそ遠い世界なのに、著者エリザベット・ド・フェドーの挑戦がここにあった。(「訳者あとがき」より)
「パンがなければお菓子を食べればいい」も、本当にマリー・アントワネットが言ったかどうか。元ネタはルソーの『告白』と言われています。
ジャン・ルイ・ファージョン(1748~1806)
マリー・アントワネットが王太子妃になるべくフランスにやってきたのは1770年。
マリー・アントワネットと王太子の結婚に、フランス中の贅沢品を取り扱う商人たちがパリの街に集結した(p30)
田舎の香水商の息子ジャン・ルイ・ファージョンもパリ行きを希望します。
「お母さん、僕の決心は固まっている。これからは宮廷の御用達になることをめざします」
「宮廷というのは、いわゆる堕落の極地ですよ。皆そろって財産破綻を目の前にした人生。宮廷人はみな借金を抱えているって言うじゃないの」(p31)
母の反対も何のその、ファージョンはパリにいる親戚を頼って上京します。
パリの匂いはきつかった。パリは当時「ぬかるみの街」という蔑称で呼ばれていた。……セーヌ川は悪臭に充ち満ちて、ありとあらゆる汚物を運んでいた。(p33)
『シャネルNo.5の謎 帝政ロシアの調香師』の記事でも触れましたが、パリはおっそろしく不潔だったんですね。
ファージョンがヴェルサイユ宮殿に初めて入ったとき、匂いに目まいがしました。
「庭園、中庭、宮廷、どこにいても匂い立つ悪臭に気分が悪くなった。通路や廊下、あらゆる角には小便、排便がまき散らされていた。大臣らの翼棟も毎朝、肉屋が豚を屠殺する血で汚れていた。サンクロード大通りは泥水で淀み、死んだ猫であふれていた」
香水は贅沢品には違いありませんが、ニオイ消しであり、消毒薬であり、気つけ薬でもあったのです。
ファージョン、宮廷出入りの調香師に
ファージョンは王室に出入りする香水商に弟子入りしました。といっても、ただの見習いではなく、夫を亡くした女主人ヴィジエ夫人の店で未来の跡取りとして期待されての入門です。
そんなファージョンは見習い中にすでにルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人に気に入られます。
デュ・バリー夫人と言えば、『ベルサイユのばら』では悪役として下品な女に描かれています。
ファージョンも悪い噂を聞いていたのですが、実際に会ってみると、全然印象が違って驚いています。どうやら平民であるデュ・バリー夫人が国王の寵愛を受けていることに対する貴族たちのやっかみが陰口を生んでいたようです。
マリー・アントワネットもデュ・バリー夫人を嫌っていました。
王太子妃はデュ・バリー夫人が耐えられないと「ならずもの」呼ばわりして避けていた。
資格試験に合格。一人前の職人に
1774年、ファージョンは技術者の資格を得て、職人録に記載されます。
未来の跡取りが一人前の職人になったので、ヴィジエ夫人は嫁取りを考えます。夫人はファージョンに王室御用達の剣磨きの娘ヴィクトワールを引き合わせ、二人はめでたく結婚に至りました。
ヴィジエ夫人が仲人となった、お見合い結婚のようなイメージでしょうか。
本人同士も気に入って、周囲から祝福されるカップル誕生!
少なくともここまではトントン拍子に進んでいます。
しかし香水商にも苦労があります。
ヴィジエ夫人は「宮廷の貴族らは往々にして支払いを遅延させがちで、ときに頑としてしつこく取り立てる必要がある」と跡継ぎに警告しています。(p35)
のちにファージョンは資金繰りに困り、破産寸前にまで追い込まれます。基本的に商売はうまくいっているにも関わらず、代金を支払ってもらえなかったからです。
貴族たちも優秀な香水商がいなくなっては困るので、支払ってくれて、なんとか持ち直しましたが。一番支払いが悪かったのはオルレアン公なのだとか。(p96)
王妃マリー・アントワネットにも気に入られる
ルイ15世崩御
ファージョンが結婚する2ヶ月前、ルイ15世が天然痘にかかって亡くなります。
新国王ルイ16世は、まだ20歳。王妃マリー・アントワネットは19歳でした。
ファージョンは王妃マリー・アントワネットにも気に入られ、香水や化粧品を届けます。
王妃マリー・アントワネットへの中傷
若い王妃は当初から中傷を受けていました。
王妃は母(マリア・テレジア)に宛てた手紙の中で「私たちは皮肉たっぷりな囃し唄にされ、からかわれています。私はそんなこと気にもしません。人々は私のことを時にレズビアン、時に殿方の愛人であるなどと噂するのですよ」と書いた。(p55)
誹謗中傷は時と共に増していき、ついには王妃のすることなすことすべてが非難され始めます。王妃は民衆だけでなく宮廷でも多くの敵に囲まれていました。
スウェーデン貴族のアクセル・フェルセンとの親密な関係も批判に油を注ぎました。(p117~118)
なぜマリー・アントワネットは非難されたか
愛妾の意外な役割
ファージョンは王妃が繰り返し非難されることに驚き、髪結い師の助手ジュリアンに尋ねました。
「理由は簡単です。国王に愛妾がいないから。これこそが治療薬のない不幸のはじまり」
仰天するファージョンにジュリアンは「王家の人気のある姫には、宮廷夫人らの憎しみと嫉妬が集結する仕組みになっているのだ」と解説。さらに、
「デュ・バリー夫人はこの役を完璧に演じたでしょう。ルイ14世の妾妃たちも言わずもがなで」
「ジュリアン、僕をからかっているのかい?」
「こんなに真剣な話はありませんよ。ファージョンさん。王妃はふつう、競争相手がいることによって守られているものです王妃は多くの女性から賞賛を得ますけど、夫がふじだらな場合は、女性の理解は高くなる。だけど今日、王妃と国王の役割が逆転しているじゃないですか。王妃マリー・アントワネットにはたくさんの恋人がいる。これが女どもの嫉妬を買うんですよ。そうなりたいけどできない女たちのね。結末は最悪だ」(p121~122)
愛妾には王妃を守る役割もあるんですね。
皇室や王族の世界は庶民と同列に論じられない
現代日本における美智子様や雅子様に対するバッシングを思うと、たしかに考えさせられます。
側室制度の復活は現実的では有りませんが、皇族・王族の世界は庶民レベルの話と分けて考えなければならない問題がいろいろあるような気がします。
(話が本から離れますが)イギリスに側室制度があればヘンリー8世のお妃たちも殺されることはなかったでしょう。
ヘンリー8世の妃
1、キャサリン・オブ・アラゴン(離婚)メアリー1世の母
2、アン・ブリン(処刑)エリザベス1世の母
3、ジェーン・シーモア(死別)エドワード6世の母
4、アン・オブ・クレーヴス(離婚)
5、キャサリン・ハワード(処刑)
6、キャサリン・パー
処刑されているのは臣下の娘2人で、外国から嫁いだお姫さまは離婚です。全員が処刑されているわけではありません。ジェーン・シーモアは産後のひだちが悪く、死亡。最後の王妃キャサリン・パーはヘンリーのほうが先に死にました。
当時のヨーロッパ人は、同じような名前ばかりつけていたのですね。
フランス革命
国王一家、ヴェルサイユからパリへ
1789年、フランス革命が勃発します。
民衆が宮殿に押し寄せ、ヴェルサイユにいた国王夫婦はパリへ移住されられます。
しかし、王室はまだ健在で、国王一家は宮殿住まい。1791年6月、ファージョンはパリのチュイルリー宮殿に呼ばれ、香水の注文を受けます。
国王一家は逃亡の計画を立て、身支度に必要なもの(と王妃が考えたもの)をすべて新調させていたのです。(p138)
本来、極秘のうちに運ばなければならない計画ですが、大量の物品を買い集めれば目立ちます。情報は漏れました。馬車も「質素とはいえないでかでかとした」ものでした。逃亡の途中で捕まってしまい、国王一家はパリへと連れ戻されます。
国王逃亡事件以後
ファージョンの怒りと不安
ファージョンも王家の逃亡に裏切られたと感じ、怒ります。
しかも馬車には、ファージョンから調達したあふれんばかりの品々を運搬していたので、共謀の疑いをかけられるのではないかと恐怖しました。
革命が急進化
革命は急進化します。この時点までは国王の権限を縮小した立憲君主体制が考えられていたのですが、逃亡劇の後、王家は決定的に信頼を失いました。国会は王権を停止し、共和国設立を宣言しました。(p141)
顧客は減り、ファージョン引きこもる
貴族などファージョンの顧客たちの中にも国外へ逃避する者もいました。
ファージョンは基本的には共和派だったのですが、できるだけ外へ出るのを控えるようになりました。その様相や優雅な話しぶりだけで、敵対視されるからです。(p144)
国王夫妻の処刑
1793年にはルイ16世、ついでマリー・アントワネットが処刑されます。
恐怖政治のはじまりです。
ルイ15世の愛妾だったデュ・バリー夫人も断頭台に送られます。
ファージョンの香水をまとってくれた美しい女性たちが、つぎつぎと死んでいく。
どちらも言われるほどひどい女性ではないことを知っているファージョンはショックを受けます。
「カペー家御用達の香水商」ファージョン逮捕される
1794年1月ファージョンも、ついに逮捕されます。ここ数週間にわたってかつての王室御用商人らが次々に捕まっていたので、あまり驚きませんでした。
ときの指導者ロベスピエールは政治的に対立する者を次々と投獄していました。ファージョンはかつての国王よりも今のロベスピエールのほうがよほど専制君主ではないかと思いました。
毎日連れてこられる囚人たちのほとんどがここを一時通過し、死刑台へ向かうか、他の牢獄へ送られ、ごくたまに釈放される者もある程度。ファージョンの不安が続きます。
何ヶ月も勾留されたファージョンの体調は悪化していきました。(p160~165)
ファージョンの裁判
いよいよ裁判の日、ファージョンはいかに革命に貢献したかを切々と訴えました。
国民衛兵の武装のために寄付したこと、戦争のために援助金を出したこと、軍の徴発に馬を献上したこと、義勇兵を家に呼び入れ世話をしたことなど。
ところが、なんと釈放を勝ち取ります。
本の記述からはファージョンの保釈と関係があるのかどうか定かではありませんが、この日、国会はロベスピエールの逮捕を発表しています。(p177)
ファージョン逝く
保釈されたファージョン、一旦は引退を考えますが、しばらくすると店を立て直し、ナポレオン帝政期には「女帝御用達調香師、蒸留製造師」に任命されました。
しかし投獄中に健康をそこなっていたため、あまり長生きできず、1806年11月、58歳で他界しました。
フランス王妃、その陰に500人以上のスタッフがうごめく大エンタープライズの長。そのお抱えのひとり香水商ジャン・ルイ・ファージョンの命がけの調香が、今日共和国を謳うフランスの最大産業につながっている。そしてマリー・アントワネットという顧客がいなければ、今日のフランス香水産業も科学の発展も無かったのかもしれない。(訳者あとがき)
ジャン・ルイ・ファージョン、恥ずかしながら本を読むまで名前も知りませんでしたが、激動の革命期を生き抜いた調香師の名は、香り好きとしてはぜひ覚えておきたいと思いました。
最期まで読んでくださってありがとうございました。