今回の本レビューは架神恭介『仁義なきキリスト教史』!
『仁義なきキリスト教史』は中村光のマンガ『聖☆おにいさん』に似たノリの小説(?)です。
『聖☆おにいさん』の、イエスとブッダが有休をとって外界、しかも東京立川でバカンスを楽しむという奇想天外さにもぶっ飛びましたが、『仁義なきキリスト教史』はそれに勝るとも劣らないハチャメチャぶり。
『仁義なきキリスト教史』のイエスは、なんとヤクザの組長です。
ヤハウェ大親分から直盃(じかさかずき)を下ろされたイエス兄貴はナザレ組を率いて、サドカイ組やパリサイ組と抗争!
あちこちに敵をつくって、しまいには十字架にかけられて処刑されてしまいます。
イエスの最期の言葉は聖書によれば「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」(マタイ27・46)なのですが『仁義なきキリスト教史』では、
「おやっさん……おやっさん……なんでワシを見捨てたんじゃあ!」
聖書とその後のキリスト教史をライトノベル化
『仁義なきキリスト教史』の初版は筑摩書房より2014年に刊行され、2016年にちくま文庫として再販されています。
「筑摩書房」「ちくま文庫」って、まじめな書店、まじめなシリーズのイメージだったんですが、こういうふざけた本もあるんですね。
『仁義なきキリスト教史』はイエス時代からキリスト教史のハイライト的事件について、いわばライトノベル化した作品です。
でも、内容は概ね史実どおり。
それでも、やっていることは、ホント、ヤクザです。
まじめな解説もついている
聖書の記述は、ときどき(しょっちゅう?)おかしなことが書いてあって、信者でないと「???」なところが多いですが、『仁義なきキリスト教史』を読むと納得。
話はデフォルメされていて演出過剰は著者も認めています。しかし、どこまでが聖書の記述あるいは史実通りで、どこからが脚色なのか解説つきなので、安心(?)して読めます。
もっとも、
逐一注を付けていくことも考えたが、やめた。注がやかましくてとても読んでいられないからだ。……本書を読まれて、キリスト教に興味が湧いたという人がいるならば、続けて諸学者のテキストを読まれるとよろしかろう(「あとがき」より)
そして、末尾に参考文献が掲載してあります。
『仁義なきキリスト教史』はキリスト教に詳しくない人におすすめ!
信者でなければ、ですね。
任侠道を極めたイエスの教え
イエスにはさまざまな伝説があり、病人を治した話などは特に有名です。
また、教条的な古いユダヤ教諸派にケチをつけて反感をかい、結局、十字架にかけられて死んだ経緯などもよく知られています。
イエスの教えやその死に方について、こんな解釈もできるのかと笑いながら楽しめるのが1~2章。イエス兄貴は、はや第2章で死んでしまいます。
「おやっさん……おやっさん……なんでワシを見捨てたんじゃあ!」
と叫びながら。
イエス死後の展開もやっぱり任侠
イエスの話は映画になったりもしているのでキリスト教徒でなくても知っている人が多いと思います。
しかしその後、キリスト教がどのような経過で世界宗教になったか、これについては専門家や歴史に詳しい人でないと、ふつうよく知りませんよね。
著者の架神恭介氏は想像力を働かせながら、おもしろおかしく描き出しています。
イエスの復活
サドカイ組の口を借りて、こんな感じになっています。
「あのボンクラども、言うに事欠いて、イエスはまだ生きとる言いよるんです」
「?」
「イエスは生き返ったんじゃとかなんとか。イエスの墓から死体が消えた言いようりまして」
「そんなもん、あいつらが盗んだに決まっとろうが」
「普通に考えりゃそうじゃけんど、あいつら頑として認めんけえ」
三位一体
信者でない者にとってはよくわからない三位一体についても、ふたたびサドカイ組の口を借りて:
「イエスがの、ヤハウェ大親分じゃいうて言ようるんじゃ」
……
「あいつら阿呆じゃけん、道理も何も分からんのじゃ」
「なんぼ阿呆じゃ言うても阿呆にも阿呆の限度があろうが。猫が犬になるんか? あ? どぎゃんしたところでイエスがヤハウェ大親分になるわけないじゃないの」
調子のいい説教師パウロ
もともと迫害者であったのに、改心してキリスト組に入ったパウロはキリスト組の仲間から不信をもたれます。
「パウロは危険じゃ。ただのボンクラなら捨て置けばええが、アレにはおかしな力がある。人を妙な妄想に取り込む力があるんじゃ……」
「…………」
「このまま野放しにしとったら、あいつは多くのボンクラを取り込んでいくじゃろう。そしたら、キリスト組は今より遥かにデカイ組織になるかもしれん。じゃけど、そん時にはわしらが目指しとったキリスト組は跡形もなくなっとるわい。パウロ組とでも言うべきものに、取って代わられとるじゃろう……。兄ィ、手ェ切るなら、早い方がええど」
異端排斥
時代下って4世紀。
「アリウス派」と「アタナシウス派」が喧嘩するんですが、世界史で習ったときもアレ、何が問題なのか、よくわからなかったことを覚えています。
はい。当時から実はどうでもよかったようです。
面倒くさくなったコンスタンティヌス帝が言います。
「なーにをクソ下らん問題でぎゃあぎゃあ言うとるんじゃ。そぎゃあに騒ぐほどのことじゃなかろうがい。それにじゃのう、こぎゃあなことを延々議論してじゃ、難しい問題じゃろうけえ、誰も間違いを犯さん言うことはなかろうが。言う方もきちんと説明できんじゃろうし、聞く方もよう分からんじゃろう。それに考えてもみいや、おどれらやくざでもよう分からん仁義の問題をじゃぞ、カタギの民衆が聞いて、分かるわけないじゃない」
なんでもいいから仲良くしろと言いたかったみたいです。
叙任権闘争
叙任権闘争については教科書的な記述では、何がどうなったのかさっぱりわかりませんが、『仁義なきキリスト教史』を読むと、何となくわかるようになります。
第4回十字軍
「なんでそうなる?」の最高峰は第4回十字軍でしょう。
イスラム教徒からエルサレムを奪還するはずが、同じキリスト教国のコンスタンチノープルを襲うのですから。
そんな残念十字軍であっても、本文の通り、それなりのドラマがあって、当事者の身になって考えてみれば仕方がないと思えるところもなきにしもあらずであった。(第7章「解説」より)
極道ルターの宗教改革
「殺せェ、殺せィ! 農民どもをぶち殺せィ! ……ぶち殺し、絞め殺し、刺し殺せェ! 狂犬はのう、放っといたら有害じゃけえぶち殺さにゃならんじゃろうが。農民もそれと同じじゃい!」
ルターが農民戦争中に放った激烈な言葉です。
こんなセリフが本当にルターの著作『盗み殺す農民に対して』の中にあるそうです。
過激すぎる!
「そうだったのか!」の連続で目からウロコ
毎章「そうだったのか!」って感じ。
著者も書いているように演出過剰なので、そのまま信じちゃダメですけどね。
大きな流れを理解する上では絶好の入門書。
マンガを読むようなつもりで読んでみてはいかが?
キリスト教の信者の方は精神衛生上、読まないほうがいいと思いますが。
でも、これがヨーロッパの言語に訳されたら、あちらの人々、意外と笑ってくれるかもしれません。
広島弁のヤクザ言葉がマフィア言葉(そんなものがあるのかどうか知りませんが)でニュアンスも含めて訳されたら顔をしかめられそうですが、各国の標準語で翻訳されたら、世俗的なヨーロッパ人なら意外と「その通りだよね」と納得してしまいそう。
アメリカのキリスト教原理主義者は怒るでしょうけど。
文庫版にはおまけとして「出エジプトー若頭モーセの苦闘」がついています。
ヤハウェによるユダヤ人大虐殺の数々。けっこう激烈なので、これは作り話? と思ったら、脚色過多のきらいはあるものの、たしかに聖書に書いてある!
旧約聖書のほかの物語も血湧き肉躍るライトノベル作品になりそうです。
最期まで読んでくださってありがとうございました。