では意外とローマなドイツについて、
では中世から近代までのドイツ地域について紹介しました。
今回はナポレオン時代から現代までを紹介します。
危機で焼け太りのプロイセン
フランス革命とナポレオン
1789年に勃発したフランス革命は全ヨーロッパをゆるがす大事件でした。
当初の熱狂はたちまち悪夢に変わり、混乱が混乱を呼びます。
そんな革命の混乱を収めたのがナポレオン。1804年には、みずから帝位につきます。
ナポレオンの勢いに大陸諸国はなすすべもなく、1806年に神聖ローマ帝国は滅亡し、プロイセンも存亡の危機に立たされます。
しかし、ナポレオンの天下は長続きせず、ロシア遠征失敗のあとは退却に退却を重ね、1814年にはナポレオンは退位し、島流しとなります。
ウィーン体制
ナポレオン後のヨーロッパ世界について話し合われたのがウィーン会議。
その結果↓地図のようになりました。神聖ローマ帝国と形は似ていますが「ドイツ連邦」です。
存亡の危機を切り抜けたプロイセン(青い部分)、なんと焼け太りして領土を拡大しています。
危機で領土を増やしたのはプロイセンばかりではありません。
地図をみると、あいかわらずこまごまとしていますが、モザイクのひとつひとつがかつてより大きくなっています。ナポレオン時代を経て相対的に強い国が小国をのみこんでいきました。
そんな「ドイツ連邦」もまた国というよりは連合体です。
大きくなったプロイセンとオーストリアが主導権争いをはじめます。
そして本音のところでは、どっちも「こいつと一緒にやっていけない」と思っている。
腐っても鯛、オーストリア帝国
ちなみに神聖ローマ帝国は解体されましたが、オーストリアはハンガリーを併合してオーストリア帝国となっていました。
だからオーストリアの君主であるハプスブルク家当主は、あいかわらず「皇帝」です。
かつての神聖ローマ帝国北部を失ったとはいえ、この時期のオーストリアは現在のハンガリー、チェコ、スロバキア、クロアチア、ポーランドやルーマニア、イタリアの一部を含む大帝国です。
ドイツ帝国成立
この辺からドイツ史の軸が移動します。
19世紀後半はドイツでも民族主義が高揚し統一の機運が高まります。
1864年 デンマーク戦争(プロイセン、オーストリア連合がデンマークに勝利)
1866年 普墺戦争(プロイセンがオーストリアに勝利。ドイツ統一の主導権はプロイセンに)
1870年 普仏戦争(プロイセンがフランスに勝利)
3つの戦争を経て、ついに1871年、ドイツ帝国が成立します。
これまでは南部オーストリアが中心でしたが、今後は北東部のプロイセンがドイツ史の中心を担っていきます。
地方分権制は維持
とはいえ領邦国家がなくなったわけではありません。
ドイツ帝国はプロイセン、バイエルン、ザクセン、ヴュルテンベルクの4王国の他、あいかわらず数多くある大小の公国・侯国、ハンブルクやブレーメンなどの自由都市からなる連合体で、プロイセン王がドイツ皇帝を兼ねることになっていました。
「明治日本はドイツをまねた」はウソ
よく明治の日本はドイツをモデルに国をつくったと言われますが、疑問です。
日本の幕藩体制はいわば地方分権色の強い政体でした。明治に入って急速に中央集権化を進めます。ドイツをまねたら、そうはならないはずです。
医学や化学、軍制など個々の技術をドイツから取り入れましたが、国づくりそのものはまったく異なります。
第一次世界大戦後
世界の強国のひとつとなったドイツ、調子に乗って(?)第一次世界大戦(1914~1918)で敗戦。
↓黄色の領土を取られます。
緑の部分は隣国に取られたのではなくドイツから分離独立させられた形です。
右上の黄色い十字架が2つ入った赤い旗はダンツィヒ(グダンスク)の市旗。左下のmono消しゴムのような旗はザールラントです。(ザールラントは現在、ドイツの一州をなしていますが現在の州旗はmono消しゴム柄ではないようです。)
第二次世界大戦後
第一次世界大戦後の混乱、世界恐慌を経て、ナチスが台頭し、迎えた第二次世界大戦にもドイツは負け、さらに領土を失います。
↓黄色部「プロイセン」の名のもととなった地方も取られます。
残った部分も連合国に分割占領されました。
日本はアメリカ一国が進駐軍としてやってきましたが、ドイツは英仏米露に4分割されました。
そして戦後、米ソの対立が激しくなると、「ドイツ」としてまとまることは不可能となりました。
1949年、英仏米占領地区(↑緑+青+オレンジ)はドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地区(↑赤)はドイツ民主共和国(東ドイツ)として独立します。
ザールラント(青と赤に白十字の旗)は当初、分離独立させられたのですが、1957年にドイツ(西)に復帰しています。
ドイツ再統一
ドイツが東西に分かれで約40年、人々がすっかり分割状態に慣れてきた頃、ソ連邦の崩壊の機会を見事にとらえ、1990年、ドイツは再統一をなしとげました。
北方領土を取り返す千載一遇のチャンスであったと思うのですが、あのとき何もしなかった日本とは大違いです。
ドイツの領土変化を東アジアにおきかえると
ところで、第二次世界大戦後のドイツの領土変化で起こったことはすさまじいかぎりです。
ソ連はポーランドの東半分を自国領とし、ポーランドには「おまえ達にはかわりにドイツの一部をやろう」とドイツ領を与えました。
ポーランドは国が半分ずれてしまったような形です。
これを東アジアに置き換えて考えてみましょう。
史実ではソ連は朝鮮半島を南下するも38度線で止まりました。
日本侵攻もソ連軍は北海道の手前で止まっています。
しかし、そこで止まらず南下していたらというパラレルワールドです。
ソ連軍は朝鮮半島を南下し、釜山(プサン)まで制圧する。
日本でも北海道を超え東北を進み東京もソ連支配下に入る。
一方のアメリカも沖縄から本土に上陸し北上する。
そして静岡あたりで米ソが握手し、戦争が終わる。
戦後、朝鮮半島北部はソ連領になってしまい、ソ連は朝鮮に対し「その代わりお前たちには北海道をやろう」と朝鮮半島南部(現在の韓国)+北海道に朝鮮民主主義人民共和国を打ち立てる(韓国はない)。
冷戦下、青森から山梨までは社会主義の東日本、静岡以西は自由主義の西日本が誕生する。
ソ連崩壊の翌年、日本は念願の再統一を果たしたけれども「北海道は永久に放棄します」と言って、やっと青森から沖縄まで一緒になることができた。
朝鮮民主主義人民共和国は民主化し韓国のような国になっている。
戦後ドイツの領土変化と現在の状態を東アジアに置き換えると、こんな感じです。
取った国に「領土を返せ」は、まだ言えるけれど、ポーランドにもう一度ずれ戻ってくれとは言えませんよね。
ソ連はそういうことをする国でした。
もっとも現在のドイツの領域を大昔の東フランク(↓オレンジ)と比べてみると概ね重なっています。
紆余曲折を経て落ち着くところに落ち着いたということなのかもしれません。
引揚者が戦後の高度成長を支えた
ソ連領、ポーランド領、チェコ領などになった地域に住んでいたドイツ人は殺されたり追い出されたりしました。残った人も辛い目にあったようです。
彼ら大量の追放者を西ドイツが受け入れました。
災難ではありましたが、国としてはそれで救われた一面もあります。
第二次世界大戦後、日本と同様に西ドイツも高度成長を迎えます。そのときに東方の旧ドイツ領から追い出されてきた避難民が労働力として吸収されました。
それでも足りずにトルコやギリシャ、イタリア、スペインなどから移民労働者を受け入れたぐらいです。もしも彼ら避難民がいなかったら、ドイツの移民への依存度はもっと高くなっていて、移民問題も、現在よりはるかに深刻なものとなっていたことでしょう。
最後まで読んでくださってありがとうございました。