本のレビュー

【本のレビュー】吉田茂『回想十年』 意外と(?)面白い政治家の回顧録

吉田茂『回想十年』

政治家の回顧録なんか難しそう……と思いきや意外とそうでもありません。

人や時代にもよるのかもしれませんが、吉田茂『回想十年』の文章は読みやすい。

終戦の日なので、戦後を担った総理大臣・吉田茂について読んでみるのもいいかなと。

のりあちゃん
のりあちゃん
政治家の回顧録なんてきれいごとや嘘ばかりなんじゃない?

自分を美化・正当化しているし、重要なことほど書けないという面もあるでしょう。

しかし、本当のことを知っている人が大勢いる同時代の話について、まったくの嘘も書けないはずです。

『回想十年』は元々1957~58年に新潮社から四巻本として発刊されました。今は中公文庫(上中下巻、1998年)が入手しやすいでしょう。

時系列に書かれていないので読みにくいところもありますが、小見出しが細かくつけられています。興味のあるところだけ読んでもいいかも。

原典にあたることの重要性

ライターの仕事をしていると、文献に挙がっている参考文献をさらに調べなければならないことが多いのですが、昔の人の文章(いわば歴史の本の元ネタ)を読むと、

「へ~、そうだったのか」

と今の人が書く歴史の本では味わえない同時代性がおもしろい。

「全然、違うじゃん」

みたいなこともあります。

引用されていたから調べたのに、前後を読むと引用先から受ける印象とだいぶ違うことも多々あるのです。

意図的かどうかはともかく意味を曲げて要約されていたり、文脈から切り離して引用部を別の意味に使っていたり、そもそも引用文が間違っているなど。

そんなことを何度も経験するうち、原典に当たることの重要性を痛感しました。

そして、読んでみると、内容的にも意外と(?)おもしろいのです。

小難しいことばかり書いているわけではなく、人間的な失敗談がいい。

ちなみに吉田茂『回想十年』『嘘だらけの池田勇人』(倉山満著、扶桑社。該当記事はこちら)制作中に読んだ関連書籍です。

吉田茂、外交官から総理大臣へ

吉田茂は1878(明治11)年生、1967(昭和42)年没。

吉田自身は東京生まれですが、実父・竹内綱は自由民権運動家・板垣退助の腹心で、板垣同様に土佐藩士でした。そんな縁で吉田が戦後、政治家になるときには高知県で立候補しています。茂は養子に入ったので名前が吉田に変わります。

大久保利通の次男・牧野伸顕の娘婿

長じた吉田茂は外交官となり、明治維新の立役者・大久保利通の次男である牧野伸顕の娘婿となります。

強力なコネですね。

『回想十年』には、こんな話があります。

1915年、第二次大隈内閣が中国の袁世凱に「二十一か条の要求」を出します。

吉田はこれに反対論を唱え、満洲の領事たちに呼びかけて反対運動を起こそうと企てました。それを本省の幹部に報告され「一領事の分際で、本省決定の方針に反対するとはけしからん!」と不興を買います。

その後、吉田がワシントンに赴任する話が持ち上がったとき、幹部たちはそれを思い出して取り消しとなったのだとか。

吉田曰く「察するに、本来なら免職に値するのだが、義父の牧野伯に対する義理合いで、刑一等を減じて、“島流し”というところだったのであろう。」(上巻217頁)

パリ会議に随行するも義父プンプン

コネが効いた話はもうひとつあります。

パリで開かれる第一次世界大戦の講和会議に牧野伸顕が出席するというので、吉田は頼み込んで随行員にしてもらいました。(下巻218頁)

ところが、牧野の秘書官(つまり雑用係)として随行した吉田は要領が悪くて牧野の機嫌を損ね、ロンドンから日本へ帰る航海中、横浜へ着くまで口をきいてもらえませんでした。(下巻234頁)

上巻は本の購入が可能ですが、中~下巻は中古か電子書籍になってしまうようです。

戦後は総理大臣に

吉田茂は戦後、総理大臣になります。政治家志望ではなかったようですが、大物政治家が占領軍によって公職追放される中、「素人」の吉田が第一党の党首になってしまうのです。

ちなみに後に首相となって所得倍増政策を押し進める池田勇人も当選第1回で吉田内閣の大蔵大臣に抜擢されています。今では考えられません。

誰もいなくなったから、かえって有能な人材が政治家になったのでしょうか。

のりあちゃん
のりあちゃん
もう一回、大量パージしたほうがよさそうだね

ノーコメント。

吉田は占領下の日本でGHQやアメリカと交渉し、難しい時代に日本を独立に導きました。ワンマンであるとか、引き際が美しくなかったなど、評価は分かれるところですが、一般的に戦後の総理大臣の中では高い評価を得ている人です。

明治の将軍と昭和の将軍

吉田茂は1967(昭和42)年没ですから、2~3世代前の人です。

その見聞きした光景が現代の私たちには新鮮に写ります。

明治の将軍に感銘を受けたマッカーサー

連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーは日露戦争の頃にも日本に来たことがあったそうです。

父アーサー・マッカーサーがフィリピン駐在の米軍司令官であったころ、日露戦争中の旅順、大連を視察したことがあり、その時ダグラスも父の副官として随行して東郷平八郎や乃木希典に合い、日本の将軍たちが武勇ばかりでなく、人間としても立派だったことに深い感銘を受けていました。(上、112~113)

あるときマッカーサーが吉田に質問しました。(上巻121頁)

「自分は日露戦争のころにも日本に来て多くの将軍たちに会った。彼らはそれぞれに風格があって非常に感じがよかった。ところが今度、三、四十年ぶりに日本に来て、また大ぜいの将軍たちに会ってみると、前とは非常に違った印象を受ける。同じ人種、同じ民族とは思えないくらい違っている。これは一体どういうわけなのだ」

吉田は答えに困ったそうです。

先人にはなかった劣等感

吉田は別の箇所で、明治の日本人には劣等感はなかったと語っています。

1902(明治35)年、日英同盟が成立しました。イギリスは大英帝国の最盛期にあり、「七つの海を制覇し、その領土に日の没する時なきを謳われていた時代」でした。

「当時の大英国と日本の国力の懸隔は、到底今日のアメリカ対日本のごときものではなく、もっとへだたりの大なるものだった……。それにもかかわらず、日英同盟が成立するや……朝野にわたって快くこれを迎えた。……これで日本はイギリスの帝国主義の手先になるとか、イギリスの植民地化するとかいうがごとき、猜疑的悲観論を唱えるものは、何ら見当たらず、むしろ“東洋のイギリス”たることを誇りとして、その間少しも劣等感がみられなかった」

吉田の念頭にあったのは、いわゆる戦後の進歩的知識人や左翼の言説です。

「何か対米関係の問題が起こると、アメリカの植民地化だとか、アジアの孤児になるとか、当の相手方はもちろん、世界のどこの国も、全然考えもしないような卑屈な言辞を、いとも簡単に弄するのを聞くと、これが日英同盟から……半世紀を経たに過ぎない日本人の姿かと、私はむしろ奇異の感を抱かされるのである」(上巻32~33頁)

ある予備校教師の敗戦コンプレックス

卑屈な世代?

昔、大学受験を前に予備校に通っていた頃、国語の先生が余談で「今の若者はうらやましい」と言ったことがありました。

バレーボールの国際試合で、日本人選手が、不当行為があったとして相手の外国人選手(アメリカ人?)を怒鳴りつけているのを見て、そう思ったというのです。

「自分にあれはできない。なぜなら戦争に負けたから」

当の予備校教師、終戦時は、まだ子どもだったと思うのですが、それでも敗戦ショックあるいは敗戦コンプレックスというのは、あるのだなあと思いました。

いや、吉田世代よりも、物心ついたときには敗戦していたこの世代(今の70~80代)のほうが卑屈なのかもしれません。

コンプレックスからの脱却を!

戦争に負けてガクッと来てしまう気持ちはわからないでもありません。

しかし、予備校教師の見たスポーツ選手など個人はともかく、戦後76年経った現代でも、政治的には、あまり変わらない光景に情けない感じがしないでもない。

明治維新(1868)から第二次大戦の終戦(1945年)まで77年です。そして終戦から今日まで、それとほぼ同じ月日が流れました。

いい加減、敗戦コンプレックスから脱却する必要があるのではないでしょうか。

「戦後レジームからの脱却」とか言っている人もいましたが、何も変わった気がしません。

同じ敗戦国なのに、なぜかいろいろと違うドイツ

吉田は1954(昭和29)年9月、7カ国歴訪の旅に出ます。訪問国はカナダ、フランス、西ドイツ、イタリア、バチカン、英国、米国。

当時、ドイツは東西に分かれていました。吉田が訪問したのは西ドイツですが、同じ敗戦国ということもあってアデナウアー首相やホイス大統領などと話がはずんだようです。

ホイス「ドイツが四カ国の占領を受けたのに対して、日本は実質上アメリカ一国の占領であったのは幸いだ」

吉田「いや日本は11カ国の占領であった。ただアメリカが主要占領国の態度を貫いたのが幸いであった」

ホイス「なるほど、なるほど。……それにしても貴方も占領軍との交渉にはいろいろ困難なことも多かったであろう」(上巻242頁)

敗戦、占領を経た国同士、理解しあえるところが多々あったようです。

西ドイツ国民はなぜ反共だったか

左翼勢力の強い日本の現状、ストライキに夢中の労働界を見慣れている吉田はストを起こさない西ドイツをうらやましく思っていました。

のりあちゃん
のりあちゃん
今は逆みたいだけど

最近は、ドイツのほうがしょっちゅうストを起こしているような気がしますが、当時は日本のほうがひどかったみたいですね。

吉田は、共産党の騒乱とそれによるストライキの問題について西ドイツの人々に会うたびに聞きました。答えはみな同じだったといいます。

「それは極めて簡単な問題だ。ソ連に占領されている東ドイツから毎日多数の難民が逃れてきて、彼らが共産主義下の実情を伝える。ソ連や東ドイツの共産党がいかに甘い言葉を述べても、それは絶対に実行されず、実情は全く彼らの言い分とは正反対であることを、われわれ西ドイツ国民はいやというほど聞かされ、よく知っているからだ」(上巻245頁)

西ドイツの共産党対策

国民が反共であるばかりでなく、西ドイツ政府の態度が徹底していました。

吉田は西ドイツの共産党対策をたずねました。すると、

「西ドイツでも、憲法上政党の結社は禁止できないことになってはいるが、しかし憲法を破壊するような活動はこれを禁止するよう、憲法第21条により憲法裁判所に提訴することができる。そこで政府は数年前にすでに、“共産党の活動は憲法を破壊するものであるから、その活動を禁止すべし”として、裁判所に提訴している」

その後1956年8月に非合法判決が出て、政府は直ちに当の解散、財産の没収などの措置をとりました。(上巻247~248ページ)

このようにドイツでは極右と極左は禁止されるのでした。

 

吉田茂といえば占領中のGHQとのやりとりや、サンフランシスコ講和条約が主な業績ですが、本の中で個人的におもしろいと思ったのは、そこからはずれたところばかりでした。

『回想十年』には、当時の中心的な政治課題についても書いてありますので、興味のある方は本を読んでみてください。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。